
二度と笑わないでください。
死ぬまで笑顔を見せないと約束してください。
たっちゃんはもう笑えない。笑いたくても笑えない。
あなたがそうしてしまったんです。
いつまでも覚えていてください。
たっちゃんを死なせたこと、片時も忘れずにいてください。
どうかお願いします。
死ぬまで笑わないと誓ってください。
1
《先般相次いだ不祥事を他山の石とすべし、ということだ。我々は一刻も早く国民の信頼を回復せねばならない。諸君、今こそ初心に立ち返ろうではないか。なにも難しいことではない。犯罪を憎む真蟄で無垢な気持ちを胸に呼び戻すことだ。
奉仕の精神を改めて胸に宿すことだ。
さすれば、切羽詰まった思いで警察に駆け込んでくる市民の声を聞き逃すことなどあろうはずもなく、ましてや、犯罪に与し、犯罪に堕する職員が出現する道理もない。然るに昨今─》
F県警本部ビルに動く人影はなかった。
耳障りな甲高い声が全館を支配している。
昨日着任した本部長の訓示は、各課のスピー力ーを通じて延々と続いていた。
朽木泰正は、五階にある捜査第一課の刑事部屋に独りいた。
強行犯捜査一係、通称「一班」の班長席。
両足をデスクの上に投げ出し、竹を削って椿えた手製の耳掻きの使い心地を試していた。
部下は出払っている。他の班のシマも蝿の殻だ。
「二班」はゆうべが主婦殺しの打ち上げで県北の温泉に繰り出したから、酒席を嫌う班長の楠見を除けば、浮腫んだ顔が部屋に揃うのは早くとも夕方になる。
「三班」の連中の姿はここ十日ほど目にしていない。
西部地区で頻発した連続放火の捜査に投入され、汗臭い所轄の道場に泊まり込んでいる。
今ごろ班長の村瀬は貧乏簸を引いたと膀を嘘んでいるに違いない。
朽木は壁の時計に目をやった。
九時を回ったところだ。
ぼちぼち呼び上げるか。
思って間もなく部屋のドアが開き、スポーツ刈りの森が入ってきた。
一班の末席に座る男で、見てくれも下っ端風情だが、実際には刑事歴十五年の腕っこきだ。
所轄の刑事課から本部の強行犯係に取り立てられるのは昇任試験にパスするより難しい。
ましてや、筆頭班である一班に名を連ねたとなれば、どれほどの数の刑事の嫉妬を買っているか見当もつかない。
「島津は一緒じゃなかったのか」
朽木が声を掛けると、森は自分の机で首を伸ばした。
「今日はソムの張り番でしょう?」
島津には田中とペアで、タイ人ホステス、ソム・シィーのアパートを張るよう指示してある。
「お前が拾ってくると思ってたんだ」
「じゃあ行ってきましょうか」
「いや、いい。半まで待って来なかったら携帯を鳴らしてみろ」
よもや忘れてはいまい。湯本直也に対する強盗殺人被告事件の初公判は今日の十時開廷だ。
「班長」
「ん?」
「長かったみたいですね」
森は悪戯っぽく細めた目を壁のスピーカーに向けた。
言われてみて、声が消えていたことに気づいた。新任の本部長はようやく気が済んだらしい。
「犯罪を憎めとよ」
朽木は鼻で笑い、反射的に顔を輩めた。
「憎めませんよ。飯のタネだから」
言い放って、森はドアに目をやった。
朽木も釣られてそうした。
島津が入室してきた。
それが島津であると瞬時に判別できたのは、百六十センチに満たない小柄な体と見慣れた薄茶色のスーツのせいだった。
花粉症の人間がするような大きなマスクで顔の下半分を覆い、侑き加減に近づいてくる。
(本文P.7〜9より引用)
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