荻野目慶子/著
■目次 第1章 転落と「最高の感情」;第2章 闇の記憶;第3章 秘めた恋の歌;第4章 死の誘惑;第5章 豊潤な旅の終わり ■要旨 私は、モラルでは解決のつかない、自分でもどうすることもできない心や体を抱えてしまった―。「生と死」「生と性」…。二つの恋愛で直面した永遠の命題。壮絶な愛の物語。
その夜、 音楽が聴こえた。 短編小説を読んだことがあった。 セックスに冷感症な女性の物語を。 私は冷感症ではなかったけれど、セックスを音楽だと感じたことはなかった。 それがその夜、聴こえた。 あの瞬間、闇にはじき飛ばされた。まるで一個の生命体が小さなロケットになったように。 それは、どんどん上昇し続けて突然……静謐。無感覚。そこは、闇の枢。 やがて、音が降ってきた。 星が降るような幽かな音色。 止まっていた呼吸の始まりと共に。 ゆっくりと体の弛緩をつれて。 それはチラチラと音をたてながら、私の海底へと沈んでいった。 生命の、さざめく音。 そんなに美しいセックスを、私はそれまで知らなかった。 隣にいる監督に告げた。 「今、『音楽』が聴こえた……」 その日は、監督が手術をされて退院後、初めての夜だった。 監督が前立腺癌を患ってから、もうだいぶ時が経つ。 あれは寒い時期だった。京都で仕事中の監督を訪ねた折、急に腹痛を起こされた。 「胆石かもしれない。とにかく病院に行ってみる」 二人の関係は秘めたものであったため、私はつきそってゆくわけにはいかない。大急ぎで荷物を片づけ、一人でホテルの部屋を出た。 肝心な時には、何の役にも立てない。 そんな関係の虚しさを、思い知らされる時。私は鞄を抱えて、ただぐるぐると京都の街をさまようばかり。 結局、東京に戻って連絡を待つことになった。 胆石は薬で散らせる範囲のものだったが、血液検査に異常が出た。 それがどこからくるものであるのか、なかなか判らず、検査がずいぶん長引いた。 そしてようやく見つかったのが、前立腺の癌だった。 ある日、話があると言われ、監督が口にしたその「前立腺」という響きを、私はそれまで耳にした覚えがなかった。 どの箇所を指すのか、監督に尋ねた。「つまり、男性の生殖器につながる腺だよ」 手術をするには難しい位置にその癌があるため、当分は薬の投与による治療になるという。 最も効果が期待できるものは、男性ホルモンを抑えるために、女性ホルモンを注入しなければならない。 監督はそのことに抵抗を感じ、ある問いを投げかけたそうだ。 セックスはどうなるのか。 医者は、少々言いにくそうに、それは諦めなくてはならなくなるでしょう、と返答した。
(本文P.5〜7より引用)
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