女優の夜
著者

荻野目慶子/著

出版社
幻冬舎
定価
本体価格 1400円+税
第一刷発行
2002/10
ISBN4-344-00235-0
人は、何によって、どんな瞬間に、本当に救われるのでしょうか。

■目次
第1章 転落と「最高の感情」;第2章 闇の記憶;第3章 秘めた恋の歌;第4章 死の誘惑;第5章 豊潤な旅の終わり

■要旨
私は、モラルでは解決のつかない、自分でもどうすることもできない心や体を抱えてしまった―。「生と死」「生と性」…。二つの恋愛で直面した永遠の命題。壮絶な愛の物語。

その夜、
音楽が聴こえた。
短編小説を読んだことがあった。
セックスに冷感症な女性の物語を。
私は冷感症ではなかったけれど、セックスを音楽だと感じたことはなかった。
それがその夜、聴こえた。
あの瞬間、闇にはじき飛ばされた。まるで一個の生命体が小さなロケットになったように。
それは、どんどん上昇し続けて突然……静謐。無感覚。そこは、闇の枢。
やがて、音が降ってきた。
星が降るような幽かな音色。
止まっていた呼吸の始まりと共に。
ゆっくりと体の弛緩をつれて。
それはチラチラと音をたてながら、私の海底へと沈んでいった。
生命の、さざめく音。
そんなに美しいセックスを、私はそれまで知らなかった。
隣にいる監督に告げた。
「今、『音楽』が聴こえた……」
その日は、監督が手術をされて退院後、初めての夜だった。
監督が前立腺癌を患ってから、もうだいぶ時が経つ。
あれは寒い時期だった。京都で仕事中の監督を訪ねた折、急に腹痛を起こされた。
「胆石かもしれない。とにかく病院に行ってみる」
二人の関係は秘めたものであったため、私はつきそってゆくわけにはいかない。大急ぎで荷物を片づけ、一人でホテルの部屋を出た。
肝心な時には、何の役にも立てない。
そんな関係の虚しさを、思い知らされる時。私は鞄を抱えて、ただぐるぐると京都の街をさまようばかり。
結局、東京に戻って連絡を待つことになった。
胆石は薬で散らせる範囲のものだったが、血液検査に異常が出た。
それがどこからくるものであるのか、なかなか判らず、検査がずいぶん長引いた。
そしてようやく見つかったのが、前立腺の癌だった。
ある日、話があると言われ、監督が口にしたその「前立腺」という響きを、私はそれまで耳にした覚えがなかった。
どの箇所を指すのか、監督に尋ねた。「つまり、男性の生殖器につながる腺だよ」
手術をするには難しい位置にその癌があるため、当分は薬の投与による治療になるという。
最も効果が期待できるものは、男性ホルモンを抑えるために、女性ホルモンを注入しなければならない。
監督はそのことに抵抗を感じ、ある問いを投げかけたそうだ。
セックスはどうなるのか。
医者は、少々言いにくそうに、それは諦めなくてはならなくなるでしょう、と返答した。

(本文P.5〜7より引用)

 
 


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