いつか記憶からこぼれおちるとしても
著者

江国香織/著

出版社
朝日新聞社
定価
本体価格 1200円+税
第一刷発行
2002/11
ISBN4-02-257802-5
吉田くんとのデートで買ったチョコレートバーの味、熱帯雨林にすむ緑の猫の憧れ、年上の女の細くて冷たい指の感触・・・・。

17歳の気持ちを、あなたはまだおぼえていますか?吉田くんとのデートで買ったチョコレートバーの味、熱帯雨林にすむ緑の猫への憧れ、年上の女の細くて冷たい指の感触。10人の女子高校生がおりなす、残酷でせつない、可憐な6つの物語

麻美子 チョコプ

と書いてある。
私はその横に、

菊子白

と書きたして、紙をもとどおりにたたみ、竹井に、と大きな字で書いた。
あと二十分で四時間目がおわる。
窓のそとはのんびりと、たいくつそうにくもっている。
きのう、父と滝をみて魚を食べた。
魚は虹鱒で、いかにも山小屋風のレストランは暖房がききすぎていたけれど、働いている人たちは親切で感じがよかった。
たぶん学生のアルバイトだろうな。
父はそう言った。
たぶんそうだと私も思った。
そういう種類の感じのよさだった。
滝は暗くてみえなかった。
「失敗だった。もっと早く来るべきだったね」
弱く笑って父は言った。
「ここで夕飯を食べようって、そればかり考えてたもんだから」
私はコップの水を啜り、全然いいよ、と言ってあげた。
滝、ほんとはちょっとみたかったけど。
父と会うのはニカ月ぶりだった。
九月の、従兄の結婚式の前に会って以来。
父が東京から宇都宮に転勤になり、単身赴任して一年になる。
母はときどき週末にこっちに来ているが、私は二回目。
父のアパートから車で一時間ほどの、滝だらけの日光(父の言葉だ)に来たのははじめてだった。
「みえなかったけど音は聞けたし」
私は言った。
「それに水の匂いもした」
父は困ったように苦笑した。
滝は、ごうごうと音をたてて落ちていた。音が空気をふるわせて、凍りつきそうな水のつめたさを夜の闇に放っていた。
私は、鉄くさい柵にもたれて、裏にボアのついたブーツをはいてきてよかった、と思った。去年のクリスマスに買ってもらったべージュのスウエードのやつだ。
「食後は?」
父が訊き、私は、コーヒー、とこたえた。
レストランをでると、見事な星空だった。

(本文P.7〜9 より引用)

 
 


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