重松清/著
ささやかだからこそ大切な“幸せ”。心に刻む、喜びと哀しみ。現代の語り部が あふれる愛情でつづる、親と子と家族をめぐる6編の中編小説集。
1 空港を出るときに「しゅっぱーつ、しんこーっ!」と元気よく声をあげたミツルは、車が山あいのインターチェンジから高速道路に入ると、こてん、と音が聞こえそうなほどあっけなく眠ってしまった。 隣に座った真理が顔を覗き込み、頬を軽くつついたが、目を覚ます気配はない。 午前中にふるさとに着く飛行機に乗るために、七時前に東京の家を出た。 飛行機の中で寝るだろうと思っていたが、一時間ちょっとのフライトだ、窓に貼りついて景色を見ているうちに着いてしまった。 「単純なんだから、ほんと」 真理は苦笑して、畳んでトートバッグに入れてあったタオルケットを広げた。 『きかんしやトーマス』のキャラクタ】が勢ぞろいした、この夏休みのために新調したタオルケットだ。 「トーマス、好きなんだっけ?」 前を走る軽トラックを追い越しながら訊くと、真理は「そうでもないけど」と言って、タオルケットをミツルの膝にかけた。 「ミッちゃんは気にしないもんね、そういうの、ぜんぜん」 僕は助手席のカズキにちらりと目をやって、車を走行車線に戻した。 ハンドルの遊びをつかみきれず、少し急な動きになった。 もう一つグレードが上の車にすればよかった。 だが、三日間借りるとなると、レンタカーの料金もばかにならない。 「ゆうべも遅くまで騒いでたのか?」 今度はカズキに訊いた。 「うるさくって寝られなかった」カズキは唇をとがらせる。 「もう、サイテーだった」 「まあ、そう怒ってやるなよ、ミッちゃんはまだガキんちょなんだから」 「だって、あいつバカなんだもん」 「そんなこと言わないの」真理がリアシートから身を乗り出して、軽くたしなめた。「カズくんの寝付きが悪いのって、いつもじゃない」 「ゆうべはすぐ寝られそうだったんだもん、でもミツルがうるさいから……」 「蒸し暑かったもんなあ、ゆうべ」僕はとりなして笑う。 「お父さんも夜中に何度も起きちゃったよ」 真理もなだめるように「いまからちょっとでも寝れば?」と言ったが、カズキは「だってえ……」と声をくぐもらせる。 「車で寝ると首が痛くなっちゃうんだもん」一とりあえず「うん」と答えておけばいいのに、それがなかなかできない性格だ。 やれやれ、と僕はアクセルを少し浮かせ、ルームミラーでミツルの様子を確かめた。 五歳にしては大柄な体をチャイルドシートに収めたミツルは、タオルケットを早くも下に蹴り落として、気持ちよさそうに眠っている。 お兄ちゃんの不満など知る由もないし、たとえ起きているときに聞かされても、「眠れなかったの?ごめーん」の軽い一言で終わりだろう。 小学校に上がると、「眠れないほうが悪いんだよ」ぐらいは言い返しそうな気もする。 もう一度一やれやれ、とため息をついて、カズキに声をかけた。 「眠くなったら寝ちゃえばいいんだからな」 カズキは細い声で「わかった」と答え、シートベルトが肩にかかる位置が気になるのか、お尻をもぞつかせ、首をかしげたりすくめたりした。 「ねえ、お父さん……」声が、もっと細くなった。 「今年もヘビ出ると思う?」 「出ない出ない、去年はたまたまだったんだから。 おばあちゃんも珍しいってびっくりしてた だろ。だから今年はだいじょうぶだ」 「……ほんとに?」 「だーいじょうぶ、心配するなって」
(本文P7〜9より引用)
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