雨月
著者

藤沢 周

出版社
光文社
定価
本体価格 1600円+税
第一刷発行
2002/10
ISBN 4-334-92371-2
芥川受賞作家の 新境地 怨念と復讐の文芸サスペンス

ラブホテルの客室には異界が縁を覗かせる


崎が清掃係として働いている鶯谷のラブホテル、雨月に、霊感の強い不思議な少女がなぜか一人で泊まりにやってくる。泊まった初日に部屋の鏡の中に自分以外の人間が映ったとパニックになる少女、しかしそのあとも少女はホテルに泊まり続ける・・・。ありとあらゆる性の欲望が昇華されるホテルに隠された秘密とは?
芥川賞作家が描く、怨念と復讐のサスペンス

1

使用済みの湿ったバスタオルで浴室のタイルの床を拭く。
客が部屋を出た後、最初にやるのがその作業だ。
七〇度くらいの熱いシャワーで、タイル壁と床と金色の浴槽を念入りに流して、排水口にひっかかった髪やら毛を取り除く。
時々、血の染みついたカットバンや男の精液が絡みついていることもあるが、俺はただ黙々と掃除をこなすだけだ。
鏡は石鹸よりもシャンプーの方が水垢が取れる。
そんたことを覚えたのも、この仕事をやるようになってからだ。
「キッチュたガス室ですよね」
そういったのは、やはり同じ清掃係の岡田だ。
二九歳だといっていたが、市ヶ谷駅と飯田橋駅の間にある大学にまだ籍があるらしい。
専攻は何だと聞いたが、教えてくれたかった。
たぶん、あまり流行らない学生運動でもやっているのだろうと思う。
バーガンディとアイボリーのタイルが市松模様にたった床。
だが、バスタブはパールの入った金色。ついでに部屋によっては、ソープで見かけるようた馬蹄形のプラスチックの椅子が置いてある。
キッチュ、というより、悪趣味。
悪趣味、というより、気が狂れている。
ラブホテルの浴室はそういうものだと信じ込んで設計された神経が、いかれているというものだ。
それとも、客達の心理に精通した計算たのだろうか。
しかも、建物自体は昭和四二、三年のものらしく、古くて、構造は堅牢な公団アパートに似ているかも知れたい。
「うわあ、凄いヨダレだわあ……」
円形のベッドのある部屋で、杉原という六〇歳近い女が声を上げている。
一回分のシャンプーとリンスの入った小袋を二つセットして、部屋を覗き込むと、水色の三角巾で髪を覆った杉原が、掛け布団のカバーを外しながら、乱れたシーッに目を落としていた。
「どうしました?」
「ほら、あんた、今のお客さんの……。あの女の人は四五、六歳よねえ」
俺は涙袋の妙に膨らんだ杉原の目を見るたび、産卵のために浜に上がってきた海ガメを連想する。
「こんなに、あんた一…」
斜めに引き撃れたシーツには、まだ体の窪みが残っていて、ちょうど尻のあたりに薄墨色の染みが広がっていた。
反射的に俺は換気のための窓が開いているか確認する。ただでさえ、客の吸っていた煙草や、外へ出るために新しく振った香水のにおいに、胃を硬くさせられる思いたのに、つけっばたしの暖房が、シーツに残ったものやゴミ箱に放り込まれたものを気化させ、充満させるようで、胸が悪くたる。
壁と同じ赤いクロスを貼った襖戸と、ガラスに柄の入ったサッシ窓が二重にたっていて、その開いた窓から、密着して建てられた隣のラブホテルのコソクリート壁が見える。
「端の方、持とうか?」
杉原がマットレスから外したシーッの縁を、女の残した染みに向かって投げるように畳んでいく。
シーッの下にはキャメル色の毛布とビニールシートが敷いてあって、客が飲み物を零したとか、稀にだが失禁した時たどは、それごと取り替えたければたらない。
杉原は鐵の寄った唇を捻じ曲げて、新しい正方形のシーツを広げると、宙に勢いよく投げて膨らませる。
俺はその端を掴むとベッドの枠まで引っ張る。
器用に杉原がシーツをマットレスとベッド枠の隙間に折り込んでいくのを見て、その鐵がマドレーヌの底の紙や折り畳み傘のようだと思う。
「あれは、私、親戚というか、血縁関係だと思うんだよねえ。男の方はまだ四〇歳にもなってたいけどねえ……。たーんか、これから、揉めるよう、あの二人はねえ……」
(本書P.3〜5より引用)

 
 


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