中央構造帯
著者

内田 康夫

出版社
講談社
定価
本体価格 1800円+税
第一刷発行
2002/10
ISBN 4-06-211442-9

待望久しい 書き下ろし 長編ミステリー! 全員、名誉ある自決。立派なご最期でありました。

エリート銀行マンを次々と襲う不審死。
「平将門の呪い」を追って、
浅見光彦は日本を貫く構造線を駆け抜ける。

「日本は、集まれ変わりますよ。多くの銀行、多くの企業が破綻するでしょうけど、敗戦と較べれぱはるかに被害は小さい。今のどん底のような状態の中で、既成の悪徳政治家や官僚や経済人が力を失いあるいは失脚して、そこから若い力が台頭してくるはずです。僕たちはそれを期待し、新生日本の誕生を信じています。

プロローグ

1

「穴掘りがまた一人、死んだ」という噂が聞こえてきた。
村の人間はもはや驚きはしなかった。
「あのざまだら、どっちみち死ぬことになるずら」と曝きあうだけだ。
まったく、あの部隊の統率はどういうことになっているのか、およそ帝国陸軍の体をなしていない。
隊員の多くは丙種合格以下の虚弱体質で、学業なかばの学生や、中年といっていいサラリーマン上がりが目立った。
いちおう軍装はしているが、ゲートルもろくすっぽ巻けないような、頼りない連中だ。
その連中を主体とする「部隊」が、こつぜんと村に現れたのは、昭和二十年五月-太平洋戦争末期の敗色も濃くなった晩春のことである。
部隊長は退役間近の中佐で、将校や分隊長クラスの下士官から上等兵あたりまでは、ともかくも職業軍人らしく振る舞っている。
しかし大多数の隊員はにわかに掻き集められた落ちこぼればかりだ。
文字どおり笛吹けど踊らずで、「歩調取れェ!」と号令をかけても恰好がつかない。
着任の日、沼津市内から静浦まで、砂利道を足取りもおぼつかなく行進してきた。
靴音高くといいたいが、「ザクッ、ザクッ」と景気よくはいかず「ザザ、ザ、ザ、ザザ」と乱れっぱなしである。
沿道には「何事か」と出てきた女子供が群れている。
大観衆に迎えられてこの体たらくでは、指揮官たちはさぞかし苛立たしかったことだろう。
部隊は宿舎として軍に接収された静浦国民学校の校舎に入った。
学校は四月二十九日の「天長節」以来、休校になっている。
敵が駿河湾に上陸してくる可能性があるというので、沿岸一帯は臨戦態勢に入り、要塞化を急ぐのだという。
それより少し前には海軍工廠のある沼津市東方の香貫山に高射砲陣地が築かれた。敵B29の編隊は南方海上から伊豆半島を目印にやってきて、富士山の手前付近で機首を東に転じ、東京、川崎、横浜方面を目指すことが判明していた。
それをここで待ち受けようというのが狙いだ。
もっとも、高射砲の着弾距離はB29の飛行高度まで届かず、はるか下のほうで炸裂し、かえってそこに軍施設のあることを敵機に教えた。
その結果、後に沼津市が空襲を受け、海軍工廠どころか全市が焦土と化すことになる。敵機が上空を通過するたびに高射砲が発射されるのだが、付近の住民は「撃つな、撃つな」と叫んだという、笑うに笑えないような話が残った。
静浦にやってきた「部隊」は、その高射砲陣地の建設を終えた連中だそうだ。
疲れ果てたような足取りはそのせいもあるが、徴兵されたものの前線では使い物にならないクズばかりというのが、彼らに対する軍の評価だった。それにしても隊員の疲労困愚した様子は、村の人間の目にもありありと分かるほどで、おそらくその時点で栄養失調になっている者も少なくなかったにちがいない。
作業は一日の休みも取らずに始まった。
静浦の南隣りにある江浦湾の裏山に穴を掘り、そこに本土決戦のための要塞を造るのだという。
静浦は駿河湾の最奥部近くにある入り江に面した、風光明媚な海岸の集落である。
広い砂浜に出ると、弓状の海岸線の上にそそり立つ富士山が美しい。
入り江の南端に突き出した大瀬崎によって、太平洋はもちろん、駿河湾内に立つ波浪も寄せることがない。
海岸近くには明治天皇の時代に造営された沼津御用邸がある。
戦局がいまほどきびしくなかった前年の秋には皇太子が疎開されていた。それほどに穏やかな土地なのだ。
江浦湾には造船所がある。
造船所といっても、大型漁船が入る程度のドックがあるだけだが、横須賀などと異なり、敵がほとんど目をつけていないという利点から、海軍にとっては恰好の秘密基地でもあった。
海軍はそこで潜水艦の修理を行い、特殊潜航艇「回天」を秘匿するための倉庫を造った。
敵の機動部隊が日本近海に接近したら、ここから「回天」を積んだ潜水艦を出撃させる計画で、穴掘りはその基地を含む迎撃用の要塞造りが目的だ。
この辺りの海岸は、背後に屏風のような山並みが迫っている。天然の要害としてはうってつけなのかもしれないが、田畑を耕す面積はごく限られている。住民のほとんどが漁業関係者で、猫の額ほどの耕地から収穫されるのは、少しばかりの野菜と、ミカンや桃などの果実にすぎない。
その小さな漁村に大勢の兵隊がやってきたから、食糧不足が問題になるであろうことは目に見えていた。
この時期、すでに配給制度は名ばかりのものであった。一日一人当たり二合半というコメの割り当ては実施されることがめったになかった。コメの代わりに配給されるのは主としてサツマイモ。
地域によっては当時獲れすぎて腐るほどのニシンだったりもした。

(本文P.7〜9より 引用)

 
 


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