黒龍の棺 上
著者

北方謙三

出版社
毎日新聞社
定価
本体価格 1700円+税
第一刷発行
2002/08/25
ISBN4-620-10660-7
新たなる土方歳三像


親友・山南敬助び託した新選組のもう一つの道、坂本龍馬が死の寸前に語った新しい国のかたちに土方は新選組の未来と己の夢を賭ける

潰えていく男の夢を、私は描きたかった。その中で、短い時であろうと、命を燃やした男たちの姿を、小説にしたかった。土方歳三が、主人公になっている。新選組を扱った小説は、多数ある。あえて新選組を素材の中心に持ってきたのは、そのイメージもまた、どこかで変えてみたいという、小説家としての欲求があったからだ。

 

第一章  斬  人

血の匂いが強かった。
じっと立っていると、屋内の争闘の気配よりも、家全体から漂い出すような血の匂いが、歳三の全身を包みこんだ。
池田屋の周辺には、新選組隊士の姿しかない。
出動を約束した会津の藩兵などは、遠巻きにしているだけだ。
そこまで逃げきる者が何人いるか、というほどの距離である。
歳三は、緊張を解いてはいなかった。
近藤以下十名しかいなかった時は、凄絶な斬り合いにな
らざるを得なかっただろう。
自分の隊が到着してからは、捕える余裕が出てきているはずだ。
しかし、逃げ出してくる者は、まだいそうだった。
そんな者をひとりふたり捕縛して、自分たちも働いたと会津の兵などに言わせたくはなかった。
屋内で、呼び交わす声が聞える。ところどころ、明りもつけられていた。
それでもまだ、時折斬撃の気配は伝わってくる。
不意に、黒い影が庭の方から飛び出してきた。
抜身の白さが、それだけ生きているもののように、闇の中で動いた。
それから、乱れた呼吸が伝わってきた。
池田屋から、長州藩邸まで遠くない。
会津をはじめとする出動した藩兵が展開しているのは、それよりずっと遠くだから、逃げ出した者が長州藩邸に駈けこむのは、それほど難しくはないだろう。
池田屋の周辺で捕縛するしか、方法はなかった。
飛び出してきた黒い影の前に、歳三は立った。
「このっ」
男は声をあげた。
横薙ぎに刀を振り、勢いが余ってたたらを踏んだ。
二の太刀を落ち着いて打ちこもう、という気になったようだ。
正眼に構え、気息を整えようとしている。
刀を抜くまでもない、と歳三は判断した。
二歩前へ出、間合に入った。
無造作すぎる動きに逆に虚を衝かれたのか、気を溜める前に、男は再び打ちこんできた。
横に動いてかわし、手首を掴み、歳三は男の躰を投げ飛ばした。
手首は放さなかったので、刀を握ったままの男の手が、逆に反ったようになった。
「副長」
走ってきた隊士のひとりに、歳三はその男を任せた。
呼び交わす声は、まだ聞えている。
争闘の気配が、ようやく間遠くなった。
やはり、血の匂いは強かった。
ほかでも外に逃げ出してきた浪士が捕えられたらしく、近くで怒声が聞えてきた。
新選組だけが、人を斬る役目を露骨に押しつけられた。いやというほど、それはわかった。
しかも、池田屋に斬りこんだ時点で、近藤は自分も含めて四人しかいなかったのだ。
それでも斬りこんだところは、いかにも近藤らしかった。
庭や物置などの探索がはじめられた。歳三の隊の二十数名は、それほどの激戦をしたわけではなく、疲労も少なかった。
歳三は隊士をひとり呼び、市中の残党狩りは出動している藩兵に任せる、という伝令に出した。
それから、はじめて歳三は池田屋の中に踏みこんだ。まず、井戸の水を運ばせた。
それから、隊士の負傷の具合を調べさせた。
沖田総司が、倒れたまま動けないでいる。血を喀いたようだ。
ほかに、死者が一名、重傷が二名だった。
二階にいた近藤が降りてきて、桶に汲んだ水を飲んだ。
「済まなかったな、歳」
なにを近藤が謝ったのか、歳三にはよくわからなかった。
もともと、浪士が決起するという情報を掴んだのは、歳三だった。
その後もあらゆる情報を分析し、池田屋近辺に集結という結論を出したのだ。しかし、奉行所から、四国屋丹虎に集結という知らせが入った。
近藤はそれを無視することができず、隊士を二手に分ける決定を出したのだった。
池田屋は鴨川の西岸であり、四国屋は東岸である。
川を挟んでいる分、実際の距離より遠い。歳三は、はじめから西岸に力を集中することを主張していた。
近藤は、それについて謝ったのかもしれない。
浪士は、七名が死亡。二十名以上を捕縛という報告が入った。決起を計画していた浪士のほとんどを、潰滅させたと言ってよかった。
ようやく、会津の藩兵も池田屋の近辺までやってきて、残党狩りに加わりはじめたようだった。

(本文P.5〜7より引用)

 
 

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