運命の足音
著者

五木寛之

出版社
幻冬舎
定価
本体価格 1429円+税
第一刷発行
2002/08/15
ISBN4-344-00223-7
迫りくる運命の足音。 これをいってしまわなければ死ねない、ずっと思っていた─

「これを言ってしまわなければ死ねない、とずっと感じていた」。戦後57年、胸に封印して語りえなかった悲痛な真実。驚愕の衝撃から、やがて静かな感動と勇気が心を満たす。『大河の一滴』『人生の目的』に続く、衝撃の告白的人間論。

 

一枚の写真

先日、私の郷里の福岡から一枚の写真が送られてきた。差出人は私の知らないご婦人だった。
その写真には、白い帽子をかぶった若い女性の姿が写っていた。
白いブラウスに白いスカート。
手には軟式テニスのラケットをもっている。
顔はふっくらと丸く、からだ全体に若々しいエネルギーがあふれている。
写真にそえられた手紙には、このような意味のことが書かれていた。
「あなたのお母さまが、敗戦後の外地で、不幸な亡くなりかたをされたとききました。わたしは小学生のころあなたのお母さまが教師をつとめておられた小学校に学び、教えをうけた者です。当時の先生のお写真がみつかりましたので、お送りさせていただきます。オルガンとテニスが上手で、とても明るく、とてもやさしい女先生でした」
私はその写真から目をそらして、机の引出しの奥にしまいこんだ。心臓が激しく鼓動して、しばらくとまらなかった。
そのときの私の心にたぎっていたのは、説明のしようのない、理不尽な怒りだった。
怒りの感情で手が震えるということが、実際にあるのだな、と思った。
親切な未知のご婦人からの便りに、私はそのとき返事を書かなかった。
そのことで、いまも私は大きな借金を背負っているような気がしている。
しかし、その写真に出会うまで、私は半世紀以上かかって、ようやく母親のことを思い出さずにすむようになってきていたのだ。
なんとかその記憶を消しさりたいと、私はながいあいだずっと必死で闘ってきた。
ふりはらっても、ふりはらっても、よみがえってくる母親のイメージがある。
その記憶からようやく解放されそうになってきた矢先に、一枚の写真が私のところへ届いたのである。
そのことで、私の五十七年の心のなかの努力は一瞬にして崩れさってしまったのだ。
「いまごろこんなものを送りつけてくるなんて!」
と、私の裸の心は叫んでいた。
未知のご婦人の善意からの贈りものとわかっていても、私は相手がうらめしかった。
そして結局、いまでも私は送り主のご婦人に返事も、礼状も書かずじまいである。
そのことは、固いしこりとなって、ずっと心の隅に引っかかったままだ。
机の引出しも、そのときからまだ一度も開けていない。
たぶん、これからもずっと、死ぬまであの写真を見る気持ちにはならないことだろう。
その夏、私は満十二歳だった。
一九四五年(昭和二十年)のハ月、日本が第二次世界大戦に敗れた年である。
当時、私たち一家は父の仕事の関係で、朝鮮半島北部の平壌という街に住んでいた。
いまの朝鮮民主主義人民共和国の首都のピョンヤンである。
戦争に敗ける、という経験は、私たち日本人にとっては、はじめてのことである。
しかも情けないことに、いままで植民地として支配していた土地で敗戦国の国民になることの重い意味が、私たちにはぜんぜん理解できていなかったのだ。

 

 
 

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