王国
著者

よしもとばなな

出版社
新潮社
定価
本体価格 1100円+税
第一刷発行
2002/08/20
ISBN4-10-383403-X
よしもとばなな 最新書き下ろし小説

最高のものを探し続けなさい。そして謙虚でいなさい。憎しみはあなたの細胞まで傷つけてしまうから――。小さな山小屋に祖母と暮らしていた彼女はある日、山を下りた。不思議な男性占い師との出会い、妻のいる男との恋。目に見えない「大きなもの」に包まれ、守られて生きる彼女の、美しくはかない魂のゆくえ。書下ろし小説。

 

 

波 2002年9月号より     〔インタビュー〕 よしもとばなな
名前と「王国」と子どもの話

アンドロメダ・ハイツ

僕らは山腹にわが家を建てている

そこは雲の上空のとなり

この骨折り仕事が終わったら星が隣人だ

僕らは星たちといっしょに宇宙に住む

コンクリートや漆喰や木材は使わない

そんなものは新しい隣近所の品位を汚すだけ

モルタルは歳月を経て手入れをおこたれば崩れる

僕らは愛と尊敬の土台の上にわが家を築くんだ

そして家が建ったらアンドロメダ・ハイツと呼ぼう

家が建ったらアンドロメダ・ハイツと呼ぼう

家が建ったらアンドロメダ・ハイツと呼ぼう

僕らは山腹にわが家を建てている

そこは雲の上空のとなり

僕らの野心的な計画はいろんな願望の青写真

それは現実になる

そしてそうなったら

谷の住人たちが家を見あげて言うだろう

"ついにやったな泊まりにいっていいかい"

皮肉屋たちも舌を巻いてこう言う"実のところ

ただの住所でしかないと思っていたよ

だけどこいつはまさにアンドロメダ・ハイツだ

こいつはまさにアンドロメダ・ハイツだ

こいつはまさにアンドロメダ・ハイツだ"

僕らは山腹にわが家を建てている

そこは雲の上空のとなり

この骨折り仕事が終わったら星が隣人だ

僕らは星たちといっしょに宇宙に住む

 

航空券の手配を電話で確認し、買い物リストのチェックをしていたらついに涙がこぼれてしまった。
もうすぐ、楓はフィレンツェに旅立ってしまい、少なくとも半年は帰ってこない。
もしかしたら一年かもしれない。
もっとかもしれない。
切なくて苦しくて、どうしようもなかった。
つらい瞬間は今この時だけだとわかっていたから、私の感情はまるで生き物のようにますます暴れだした。
もうこの机にすわって、このカップでお茶を飲みながら楓の声に耳を傾けて集中し、思考をひとつに溶け合わせることはないと思うだけで泣けてきた。
いい仕事をしたあとはいつもこういう気持ちになる。
だからきっといいことなのだ、と私は自分に言い聞かせた。
楓が発した言葉をテープに録音しながら自分でも書きとめているとき私はとにかく必死で、だからこそいっしょに見知らぬ世界へ旅をすることができた。
彼の頭の中の、どことも言えないその空間……そこは暖かくも寒くもなく、不幸でも幸福でもなくて、ただ流れだけがある世界だった。
そこに入ったとたんこの世から意識は離れ、なにもかもが中和されてなだらかになるような気がした。
楓の頭の中はいつでもとても静かで落ち着いていて、整理整頓されていて、誠実だった。
もしかしたらそういう個性こそが人をその人の限界にしばりつけているのかもしれない、でも、それでも彼の考え方のくせみたいなものは、私にとっては心地よく感じられた。
そして彼のいちばんすばらしいところは、自分の思いこみやお説教を語ることが一度もなかったことだった。
わずかに冷静さが乱れ情熱があふれだすことがあるとすると、それはいつでも人間というものや生きている動物や植物やこの世の全てのものに対する、断固とした愛情について語る時だけだった。
彼の思い出の中のやりきれなかったできごとや美しいこと。
私は、聞き書きをしながら、また自分の部屋でテープを起こしながら、何回もくりかえしそのことを知った。
まるで最後のところで落ちていく何かをぐっと受け止めるように、彼はいつでも自分以外のもののために存在していた。
それでもその受け止める力は皿ではなく、どんなに目がつまっていてもしょせんざるにすぎなかった。
それがわかっているからこそ、彼はこの世にいてちっぽけなこの町のかたすみで働き続けていくのだろう、と私は思った。
そのざるがざるであることは永久に変わらず、生きている間に皿に進化することはたぶんない、でもいつかそうなることもあるかもしれないという希望は決して捨てずに、日々少しでも目を細かくしていくのだ。
いつもの椅子に座っているだけで、私の感情はすぐに思い出の中をさまよいはじめる。
玄関に来たお客さんをこの、古い家具に囲まれた部屋に、遠く街を見おろす窓からは午後の陽射しが明るく入ってくる、何よりもとても気持ちが落ち着く心地よい場所に導いて紅茶を入れることも当分ない。
この家の中で、私には確かな居場所があった。夢中で働いているうちにいつのまにか身に付いた合理的な動きがあった。
そしてテープを起こしてまた読み上げて、まとめて、またインタビューをして……そういうくり返しで作り上げた原稿はすっかり完成し、出版社の人があとで取りに来ることになっている。
お茶を入れて、いただいたお菓子を出して、原稿を渡して、玄関で見送る……きっとそうなるだろう。そしてひとつの区切りが終わってしまう。
すっかり終わってしまう。

(本文P.4〜9より引用)

 
 

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