飛行少女 上
著者

伊島りすと

出版社
角川書店 
定価
本体価格 1600円+税
第一刷発行
2002/08/05
ISBN4-04-873381-8
16歳の子供たちに秘められた謎とは……。未だかつてないホラー大作!

パラコートを大量に飲み自殺を図った少女は、自分がかつて治療をした少女に瓜二つだった。そしてアメリカ留学から帰国した姪の顔も…。彼女たちの共通項は16歳という年齢。女医・立花麗火はこの謎を調べ始める…。未だかつてない新たなる物語の誕生。注目の新鋭が放つ、新感覚のファンタジック・ホラー。

プロローグ

一九七九年 ハ月

その幼い女の子は、眼の前にある手を見ていた。
いつも見慣れているその手は少し汗ばんでいて、それは先ほどまで歩いていた外の暑さのせいばかりではないように幼女には思えた。
母親はいらだっていた。
デパートの店員さんとこの前買ったばかりの洋服のことについて話している。
内容まではよくわからない。
でも、そのおだやかな口調にもかかわらず母親が怒っていることは、まだ三歳の誕生日を迎えてもいない幼女にもわかった。
退屈していた。
自分の手を握っている白い腕をたどって視線を上の方に向けていくと、母親の顔と店員さんの顔が見え、その上の高い天井にはきらきら光るガラスの輝きが冷房の風に吹かれて揺れている。
あれは何というものだろう。
おうちの天井にある明かりとは違う。
細かなガラスや涙みたいな形のガラスに囲まれてそれ自体が生きているみたいに眩しい輝きを放っている。
ここに来ると彼女はいつもうっとりしてしまう。
おもちゃ売り場も好きだけれど、ここのほうがもっと好きだ。
きれいな色がまわりにあふれている。
まるでお花畑みたいだ。
洋服に囲まれた周囲をぐるりと見回し、再び自分の眼の前にある手を眺めた。
母親はおしゃべりに夢中になっていて、握っている手が少しゆるむ。それが何かの合図のように感じられて彼女は下から母親の顔を見上げ、再び眼の前の手に視線を戻した。
そして、その汗ばんだ柔らかい手からそっと自分の指を抜いた。
母親は気付かない。
嚢が呼んでいた。
ピンクや黄色や淡いブルーの洋服の嚢が、自分が来るのを待っている。
彼女はその襲の感触が好きだった。
花柄や水玉模様のすべすべした布の折り重なりが頬に触れるとそれだけでいい気持ちになる。
うっとりしてしまう。
「……早く来て、こっちへ来て」
呼ばれた気がしてゆっくりと母親のそばから離れた。
おむつが取れたばかりの、まだたどたどしい歩き方でデパートの通路を横切り、数え切れないほどたくさんのワンピースが吊り下げられている売り場の中に迷い込んだ。
服が折り重なって揺れていた。
そっと手を差し延べてその表面に触れると、ほほ笑みを浮かべるようにその襲が少しずつ開いていく。
すべすべした感触が指先から腕へ、そして頬から首筋に移っていって、それが風に舞うように波打っている。
彼女は吸い込まれるようにしてその中に入っていった。
襲をかきわけ、その心地よさにうっとりしながら、奥へ奥へと進んでいく。
眼の前にさまざまな色があらわれ、その色彩のひとつひとつが幼い女の子の小さな躰をやさしく包みながらなでていく。
奥の方からかすかな声がまた聞こえた。
母親の声ではなかった。
歩きながら立ち止まり背後を振り返ると、母親と店員さんはまだ何かをしきりにしゃべっている。
彼女はそのまま誘われるようにして、洋服の波の中に入っていった。
襲が触れ、またその向こうに襲があり、幼く小さな躰を取り巻きながらゆっくりとその肌に触れてくる。
それは布地のようでいて布地ではなかった。
しだいに幼女は、触れているのがなんなのかわからなくなってきた。
「……きれいな肌」
襲が寄り集まってもつれるようにひとつになり、やがて指の形になった。
白く細い指。
その指が、幼女の肌に触れてくる。躰のずっと奥の方まで触れてくる。
「もう、わたしたちはひとつよ」
「ひとつP」
「そう、ひとつ。どこまでも、どこまでも、ひとつ……、その日まで、わたしがあらわれるその日まで……」
わたしって、誰だろう?
でもなぜかうなずいてしまった。
ひとつ……。
どこまでも、ひとつ……。
うなずくと指はほつれるようにしてほどけ、再び折り重なった嚢となった。
眼の前が少しずつ開けていく。
波が崩れるように襲が割れていく。
心地よさが消えた。
襲の向こうからサイレンのような音が伝わってくる。
ここはどこだろう?
色とりどりの襲の森を抜けると、いきなり視界が開けた。
土ぼこりのする道に出てしまった。
もうあの声は聞こえない。
デパートの売り場もそこにはなく、古びた大きな建物が道の周囲に並んでいる。
そして、その向こうには海が広がっていた。
いつのまに外に出ちゃったんだろう。
見慣れぬ場所。

 

 
 

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