男装の麗人
著者

村松友規

出版社
恒文社
定価
本体価格 1900円+税
第一刷発行
2002/07/20
ISBN4-7704-1074-3

スパイ容疑のため、北京で刑死した川島芳子の
非業の生涯を追う。

稀代のトリックスターがよみがえる!

かつて上海の巷で名をはせた
「男装の麗人」こと川島芳子の
短くも華麗・波乱に満ちた数奇な運命。

 

[目次]
プロローグ
第1章 ダンスホール
第2章 盟友
第3章 虚構
第4章 命運
第5章 養父
第6章 断髪
第7章 結婚
第8章 遭遇
第9章 燃える上海
第10章 魔都
第11章 男装の麗人
第12章 蘇生
第13章 毒の伴侶
第14章 落日
第15章 煉獄
第16章 執着
エピローグ

あの雪は幻想的だった……去年の暮に見た舞台に舞い降りた雪を、私はこのところつづいている微熱の中で目に浮かべた。
あれは落ちてはならぬ雪であったが、舞台に一瞬の閃光がはしったかと目をみはった。
そして、間違いがこんな効果を生むこともあるのかと、生の舞台の面白さをつくづくかみしめたのだった。
「仮名手本忠臣蔵」は、いろは四十七文字と四十七士をかさね、武士の手本である忠臣たちの蔵、そこに大星由良之助のモデルである大石内蔵助の蔵を利かせた題名だ。
題名にすでに人気狂言の匂いがからんでいるが、不入りのときも景気を挽回する効果をもつ芝居というので、独参湯と呼ばれてきた。独参湯はそのむかし、気付薬として定評のあった煎じ薬であるという。
ただ、私が見た舞台は純粋の歌舞伎ではなく、不景気の折からその特効薬にあやかろうとする公演にちがいなかった。
題名も忠臣蔵をローマ字で表わし、ロック歌手、テレビ・タレント、お笑い芸人などが寄り集った一座で、私は演出者と旧知の仲であったため三日目の舞台に足を向けたのだった。
ミュージカル、アングラ風、歌舞伎もどきのセンスが入り混じった芝居のつくり方で、これで多くの客を呼べるとも思えなかったが、四百ほどある客席はすべて埋まっていた。
出演者の知名度が、集客効果をもったのだろうと思いながら、私は大した期待感もないまま開幕のベルを待っていた。
忠臣蔵にまつわるエピソードをすべて組み入れ、しかもスピーディに芝居を進行させることを試みたという作者の文章が、受付でもらったパンフレットの中にあった。
そして芝居は、意外なほど素直に歌舞伎の進行とかさねられていて、大序から順に筋を追う十一段としてつ
くられていた。
それでも、大序において高師直が塩冶判官の妻である顔世に、道ならぬ恋をしかけるあたりから、赤穂の塩をめぐる師直と塩冶判官の確執がからめられ、内容はさまざまな忠臣蔵の切り絵のような感じだった。
ところが、四段目の判官切腹の場だけは、歌舞伎の舞台をそのまま模したかたちになっていた。かつて演出家が酒の席で話していた言葉が、ふと私の中によみがえった。
「忠臣蔵は、やっぱり四段目の判官切腹の場に尽きるね……」
彼は、大袈裟な仕種でグラスを宙にかかげて透し見るようにしたあと、三人の男が一人の男を限りなく信頼している。そして、死に際しその男にだけ自分の真意を伝えたいと希っている。
これは忠義とか道徳とか、そんなものを超えた世界なんだよ」そうつけ加えて、グラスに残った焼酎を飲み干したのだった。四段目は彼が作者に注文をつけたのだろう……私は、そう思って舞台をながめていた。そしてこの日の舞台の中で、四段目だけが際立っていたのである。
塩冶判官はロック・ミュージシャン、由良之助は中堅のお笑い芸人が演じていたが、二人の組み合わせが、この場にかぎって不思議な光彩を放っていた。演技のよしあしというよりも、演出家が二人に対して場面の意味合いを強く伝えていたせいだったのだろう。
不馴れな歌舞伎調のセリフやうごきを踏襲しながら、それぞれの個性が生かされるようにつくられて
いて、他の場面とは別人の趣きだった。この舞台とは別に認め合っている、ロック・ミュー
ジシャンとお笑い芸人の絆が、その場面から透けて見えていた。
舞台のけしきは、歌舞伎よりもさらに象徴化されていて、塩冶判官は、どんな場所ともつかぬ空間の中に白装束を身につけ、検死の役人と介錯人に見守られて坐っていた。判官は、じっと由良之助を待っている。自分の真意を伝えたい男を、ひたすら待っている。
そこへ上使が到着し、判官切腹、家断絶、所領没収の上意を伝える。判官の「由良之助は……」の声に優さと哀愁がからむ。

(本文P.9〜11から引用)

 
 

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