終わりなき 始まり 下
著者

梁 石日

出版社
朝日新聞社
定価
本体価格 1700円+税
第一刷発行
2002/08/01
ISBN4-02-257764-9
記念碑的 長編小説

愛は暗闇の中で見詰め合う瞳。一瞬の永遠を生き、大きな力となってすべてを許す根源っである。

第三章

大阪を出奔した文忠明は二年ほど東北地方を放浪したあと東京に出てきてタクシー運転手になった。
そして一年後に家族を東京へ呼び寄せたのである。
事業に失敗して大阪を出奔してから十三年ぶりに金基沫と会ったが、金基沫は以前とまったく変わっていなかった。
それに比べて、おれは変わっただろうか?と文忠明は思うのだった。
ときどき妻の陽子に、
「あなたは変わってしまった」
と悪意をこめて言われていた。
自分では変わっていないつもりでも、はたから見ると変わってしまったと思われるふしがあるのだろう。
それを文忠明も認めないわけにはいかなかった。
激しく変動する時代の中で人は変わっていくが、自分はどのように変わったのかを確かめるのは難しかった。
鏡の中の姿を見るように自分の内面を見ることはできないからだ。
昨日と今日の境目をかろうじて生きているその日暮らしの文忠明にとって、明日はどうなるのか知ったことではなかった。ただ朴淳花に対する思いは日ごとに深まるのだった。
タクシーを運転しているときも、就寝前にもの思いにふけっているときも、文忠明は淳花のことを考えていた。
淳花の情熱的な黒い瞳や愛らしい唇と声、はちきれ
そうな肢体、すでに男を充分に知っている性の喜悦それらは妻の陽子にはないものであった。
日ごとに深まっていく夫婦関係の溝を埋めるように文忠明は淳花へと傾斜していくのである。
誰にも何も告げずに大阪を出奔して十三年ぶりに金基沫と再会した文忠明の気持ちは少し楽になったが、それでも贖罪意識がなくなったわけではない。
目に見えない人生のしがらみはむしろ澱のように深く沈殿していくのだった。
淳花を愛しているが、先のことを考えたくはなかったのだ。
しかし淳花はしだいに文忠明との結婚を望むようになっていた。
その日も淳花の兄の朴建二から掛かってきた電話を陽子が受けた。
「朴いう人から電話。最近よく電話が掛かってくるわね」
むろんその電話が淳花の代理であることを陽子は知るよしもなかったが、文忠明は気が気ではなかった。
電話に出ると朴建二はいつものように、
「すみません。淳花に頼まれて……」
と言って淳花と交わるのである。
電話を交わった淳花は、
「ごめんね。どうしても声を聞きたかったの。だって二日会ってないんだもの」
と切なさそうな声で訴えるのだった。
子供のように天真欄漫で無邪気な反面、こういうときの淳花は声に成熟した女の性的な響きを漂わせていた。
文忠明は朴建二と話しているように装いながら淳花とすぐにでも会いたいと思った。
そして会う約束をすると文忠明は三十分後にはそそくさと家を出た。

(本文P.4.5から引用)

 
 

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