水の時代
著者
初野晴
出版社
角川書店
定価
本体価格 1500円+税
第一刷発行
2002/05/25
ISBN4−04−873382−6
全選考委員絶賛の、第22回横溝正史ミステリ大賞受賞作

全選考委員絶賛の、第22回横溝正史ミステリ大賞受賞作

脳死状態にありながら、月夜の晩に限り意思伝達装置を使って話をすることのできる少女・葉月。彼女は、自分自身の臓器を必要とする人たちに分け与えたいと願っていた。移植問題に深く切り込んだ傑作。

第一幕 冬の昴

「ここから先に進むと逮捕されますよ」
時間は午前六時前、俗離れした閑静なマンションが建ち並ぶ高級住宅街、針のような寒気が凍みる朝方。
おれは背後から呼び止められた。
ふり向くと、見知らぬ初老の男が、白い息を吐いて立っている。
タキシード調の背広姿、銀縁眼鏡の奥に光る臭のような目つき。
身体中の線という線がまっすぐで、白い手袋までしている。
─まだガキの頃だった。
オヤジとオフクロが遺したビデオで、「アダムスのおばけ日記」という、今のおれ達の世代には「アダムスファミリー」でないと通じない古いテレビアニメがあった。
兄貴と一緒に飽きるほど観て過ごした憶えがあるが、そのアニメに登場する、身長がやたら高いフランケン
似の執事を思い起こさせた。
対時するおれの方は、脱色して傷んだ髪、乾いた血がこびりついたジーンズとサファリジャケット、そしておぼつかない足元でいる。
傍から観察されたら、おれ達二人の組み合わせは奇妙に映るだろう。
しかし目の前にいる〈執事〉の姿は、周囲の風景に、不思議と溶け込んでいる。
辺りには、おれ達以外誰もいない。
しばらくぼかんと目を留め、ぼけっと突っ立った。
焦点がうまく合わない。
とりあえず、〈執事〉の肩から膝までをなぞってみた。上着の胸ポケットから覗く、糊の利いたハンカチヘと視線を戻し、おれはようやく口の端から声を出すことができた。
「失せろ、くそじじい」
「警察が待ち伏せしています。見たところ、あなたはまだ高校生」
カウンターパンチを食らったようで、咄嵯の反応に困った。
寝癖のついた髪をかき上げ、ついでに睨みつけておく。
「……ですから、鑑別所で貴重な青春時代を過ごすのはどうかと。十代の一ヶ月は、私の歳になると一年に相当します。大変もったいないことだと思いますが」
いったいどんな尺度だ。
〈執事〉を軽く突き飛ばすと、前へ進むことに専念した。
こんな妙な男に構っていられない。
頭の中は、忘れてきた財布を取りにいくことでいっぱいになった。
管理費込みで五万七千円。
滞納していた先月分の家賃が入っている。
その為にわざわざ、二日酔いで重心を失った脳みそを揺すぶってまで、都心の始発電車を乗り継ぎ、この肌に合わない高級住宅街までやって来たのだ。
「傷害、無免許運転、恐喝、および器物破損、不法侵入、監禁、おまけに窃盗……。無茶苦茶なことをしましたな」
〈執事〉の声が背中を追いかけてくる。
おれの足が止まり、かすかによろけた。
冷たそうなアスファルトが、ぐん、と自分の方に持ち上がってくる。
気がつくと、前のめりになって倒れていた。
吐き気が込み上げる。気分は最悪だ。
白濁しかけていた記憶の中で、昨夜の出来事がぐにゃぐにゃと、水で溶いた絵の具のようによみが
えってきた。昼も夜もわからない繁華街、タンバリンのように鳴り響く喧騒、そして興奮も退屈もし
ない苛立ち一。
ああ、頭いて。
1昨夜、酔っ払ってハイになった大学生達に因縁をつけられた。裏道に誘って、逆に散々痛めつ
けてやった。最初に逃げようとしたひとりをメンバーの車へ押し込み、連れ回した。が、途中で飽き
た。金目のものを徴収しようとしたが、あいにくそいつの手持ちは少なかった。おれ達が殺気立って
見守る中、自動販売機を壊させようとしたのだが、途中で泣きが入ったので、結局そいつの家まで行
くことになった。金持ちのぼんぼんらしく、塀囲いの邸宅に目を見張った。家族は留守。居間には四
十インチ以上あるプラズマテレビと、豪勢な洋酒がびっしりと並んでいた。誰かが先に手をつけて、
うほっというゴリラの炮障のような声をあげた。やがて携帯電話で一斉に連絡を取り合い、大宴会が
始まった。空いた酒瓶が次々と転がる。居間はあっという間に煙草の煙で一杯になった。おれ達は涙
ぐむそいつの口をガムテープで塞ぎ、手錠をかけ、死んだゴキブリの真似をさせて面白がった。
仰向けにさせて手足を上げさせる。
疲れて手足が下がってこようものなら、四人がかりで百円ライターであぶる。
しばらくして、今度は皆んながゴキブリのようになった。ガサゴソと家中を這い回り、帰り際になると、皆んなポケットを膨らませて上機嫌だった憶えがある。
……そして今朝、忘れてきた財布に気づき、のうのうと取りに戻ってきたこのおれ。
立ち上がって白い外壁の角まで歩いた。
電信柱から顔を覗かせると、赤いパトライトを回転させるパトカーが停まっていた。
バケツの冷水をかぶったように目が覚めた。
「財布に、身分を証明するものは入っていましたか?」
耳の裏側から曝かれた。
ふり向くと、肩越しに〈執事〉の顔がぬっと接近している。
「具体的に言え」焦ったおれは〈執事〉の胸ぐらを掴んで押し戻す。
「免許証、学生証、レンタルビデオの会員力ードなど。
あと、コンビニのレシートもまずいですな」
身体はまだ二日酔いの苦痛を訴えていたが、おれは目をしばたたきながら懸命に思い出そうとした。
こんなに記憶を頼りにしたのは、私立高校の受験勉強以来だった。
「ない……、はずだ」
「よろしい。で、幾ら入っていたのですか?」
悠長なことを言ってやがる。
今おれが精一杯考えられることは、この身体で、どうやって遠くまで逃げられるかだ。
でも待てよ。
遠くにだって?─遠く?遠くって、いったい何処にあるんだろう?
「一千万円」
おれは答えた。
〈執事〉は臆することなく胸元に手を入れ、行く手を阻んできた。無造作に掴んだ札束を手渡してくると、
「残りは後日お渡しします」
手のひらに一万円札が十枚以上載っかった。二十枚かもしれない。いや、もっともっと?この場になって、この不意をつく状況は、さすがに怯んでくる。
「お、おい」
「失礼ですが、お名前は」
躊躇した。
(本文P.6〜9)

 

 

 

 

 

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