著者紹介
■藤原伊織(ふじわらいおり)
昭和23年大阪府生まれ。東京大学文学部仏文科卒。昭和60年『ダックスフントのワープ』ですばる文学賞を受賞。平成7年『テロリストのパラソル』で江戸川乱歩賞を受賞、さらに翌年、同作品で直木賞も受賞、絶賛を浴びる。著書に『ひまわりの祝祭』『てのひらの闇』『雪が降る』がある。

1
羽音が聞こえた。
ブーン、ブーン、ブーン……。
ようやく聞きとれるほどかすかなものだが、たしかに羽音だ。
それも昆虫が飛びまわるとき耳にする音だ。
だが外からとどいてくるものではない。
頭で、頭蓋骨の内側で鳴っている。
こいつはいったいなんだろう。
耳鳴りだろうか。
首をひねりながら、倉沢達夫は足をとめた。
駅前のパチンコ屋からの帰り、アパートに向かう夜道である。
まだハ時すぎ。盛り場からもう遠い通りにひと気はなかった。
ふいに羽音がやんだ。
ほんの数秒の出来事だった。
空耳か。
つぶやいて舌打ちし、達夫はまた歩きはじめた。
空耳は、パチンコのせいかもしれない。
なにしろ二万すったのである。
あっというまに、一日半の手間賃がパーになった。
きょうの台はまるっきり目算が狂った。
達夫はジーンズのポケットに手をいれ、感触を探ってみた。
店から持ちだしたパチンコ玉がジャラジャラふれてきた。
きょうはなぜか突然、中断したくなったのだった。
あまりにつかなかったせいかもしれない。パチンコ屋に出入りするようになって三ヵ月ほど。もう慣れはしたもの
の、万札を惜しげもなくつぎこむ周りに較べれぱ、依然ヶチケチ打っている。なのにそのあい
だ、数十万は負けている。
耳鳴りなんか聞こえちまうのは、そのせいか。
さえない一日だった。
いや、さえないのはいつもどおりだ。
あーあ、パチンコなんか、もう見切りつけなきゃな。
吐息まじりに声がでた。
だいたい、おれがパチンコなんかやる理由がどこにある?うんざりするほうの理由なら、ほかにあるのに。
考えると、なんだかひどい脱力感がやってきた。
おまけにきょうは、おそろしく蒸し暑い。
空気がまとわりついてくるような湿気をはらんでいる。
とぼとぼ歩いてアパートが近くなったとき、また物音が聞こえた。
今度は脇の路地からとどいてきた。
鈍い音だが、どういうたぐいのものか、達夫はすぐ理解した。
肉と肉の衝突する音。
高校時代、この肉体の悲鳴はよく聞いたことがある。
ケンカか、それともカツアゲか。
怒鳴りあう声がないから、たぶんあとのほうだろう。
達夫自身、目をつけられたことはないが、だれかが脅
されている現場は学校で何度も見かけた経験がある。
だがそんなとき、達夫はいつも無視をきめこんでいた。
関係ないことに首をつっこんでめんどうに巻きこまれるなんざ、愚の骨頂だと思う。
路地まえを足早にとおりすぎた。
スニーカーだから足音はしなかったはずだ。
連中が人影に気づいたかどうかはわからないが、どうせたいしたもめごとじゃないだろう。
いくらかのカネが、ある場所から別の場所に動くだけだ。
パチンコとおんなじだ。
けが人がでたって、いや、万いち人が死んだところで、おれには関係ない。
「……三万円しかありませんが、これでいいですか」
達夫の足が、ふととまった。
痛みを抑えた調子のかすれ声が、なんだか聞いたことのあるような気がしたからである。
数歩もどって、通りの角から首を突きだした。
十メートルほど向こう、薄暗い路地の塀に沿い、四人の男の影がある。
なかの年長のひとりが見知った人物だった。
まちがいない。
アパートの隣の部屋に住んでいる黒木だ。
周りの連中は、二十歳の達夫よりまだ若い。
おそらく十五、六といったところだろう。
といっても全員、小柄な達夫より格段に上背がある。
割ってはいったところで、あいつら三人
相手に勝てるわきゃないな。
大声をあげるか。
そいつもあんまりゾッとしない。
やっぱ無視するか。
いつになく迷ったのは、黒木と二週間ほどまえ、口をきく機会があったからである。
あれは雨が降り、休みになった週日の午後だ。
近所のコインランドリーでのことだった。
達夫が洗濯機のドラムに下着を放りこみ、持参した文庫本を読んでいるとき、声がかかった。
「倉沢さん……、じゃないですか」
顔をあげると、どこかで見たことのある三十代半ばの男が、傘とビニール袋ふたつをぶらさげ、背広姿で立っていた。
達夫は首をかしげた。
「僕、ほら、お隣の黒木ですよ。いままであいさつもしないで失礼していましたけれど」
「ああ」と達夫は思いいたった。
半年くらいまえから、何度か廊下で見かけるようになった男だ。
「こんちは」と彼は答えた。
達夫の素っ気ない態度のせいかどうか、黒木も黙ったまま洗濯槽に汚れものと洗剤を放りこみはじめた。
手際よくすませると、「ちょっと、お茶でも飲んできます」そういって表にでていった。
(本文P.3〜5から引用)
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