晴子情歌 上
著者
高村薫
出版社
新潮社
定価
本体価格 1800円+税
第一刷発行
2002/05/30
ISBN4−10−378402−4
五年の歳月を費やして拓いた 小説の新しい沃野

北洋漁船に乗り組む青年のもとに、青森の母から届き始めた大量の手紙。母の半生を告白するその手紙は、関東大震災の記憶から始まりニシン漁の殷賑を綴り戦中戦後の混乱を活写して、日本が忘れ去ろうとしている履歴書でもあった。しかし母はいったい何を息子に告げようとしているのか。母という壮大な謎に挑戦した大作長編。

 

第一章 筒木坂

晴子はこの三百日、インド洋にいた息子の彰之に宛てて百通もの手紙を書き送り、息子の方は、それらを何十回も読み返してもうほとんど文面を諳んじていたが、いまもまたその中の数通を開き、読み始めると、いつものように意識の周りにガスのように暗黒が沁み出した。また
その昏いガスの中では、今日はどこかで火が焚かれているのか、やがて一人の雲水が墨染めの衣を赤黒く照り輝かせて鎗践と現れ、通りすぎていったが、目を凝らすと網代笠の下のその顔こそ暗黒の穴なのだった。そうしていまも、彰之は寝入ろうとしていたのか、目覚めようとしていたのか。
『拝啓
貴方の船はもう赤道を越えましたか。いまカレンダーを見て日敷を数へ、丁度そんなころではないかと思ひました。
貴方が襲つてから、とき々赤道の海がどんなものか想像しようとするのですが、こ、では何も思ひ浮かびません。しかし昨日は、郵便局に行つた蹄りに『熱帯の生き物』と云ふ図鑑を圖書舘で借り、モンスーンの仕組みを知りました。書も夜もなく海が熱せられ、そこから立ちのぼる熱い室菊が水蒸氣に轡はり績け、強大な雲が生まれ績けると云ふのは如何なる光景でせうか。
ところで今日、お書をすませて居間に濁りで坐つてゐたとき、邊りが急にしんと冷えてきて物音が途絶えると、私はふと野口の家に居るやうな氣持ちになりました。私は筒木坂の夢を見てゐたのです。
夢の中では先づ、風の音がすぐ傍で聴こえ、私はその風の下で眠つてゐるのでした。息が長く甲高く、か細く鏡く、どこまでも績いていく歌の節のやうな風の一晋です。
やがて私は目を覧ましましたが、一寸目が潰れたのかと思ふほど邊りは暗く、自分がどこにゐるのか分からずに暫くぼんやりしてゐました。績いて眩しい光に氣づいてそちらへ顔を向けると、大きな四角い光の枠があります。白いと云ふか銀色と云ふか、くつきりと漆黒の中から切り取られたやうな鏡く四角い光で、私は咄嵯に宇宙船の窓だと思ひました。丁度前の晩、風の音で眠れないと云ふ弟たちにジュール・ヴェルヌの火星族行の話をしてやつたところでしたから。(本文P.7、8より引用)

 

 

 

 

 

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