パレード
著者
川上弘美
出版社
平凡社
定価
本体価格 952円+税
第一刷発行
2002/05/05
ISBN4−582−82996−1
ツキコさん、昔の話をしてください

話題のベストセラー小説、『センセイの鞄』のサイド・ストーリー。夏の午後、蝉しぐれをききながら、畳にねそべって、ツキコさんがセンセイに物語る、淡く切ない少女時代の「昔のはなし」。

 

 

「昔の話をしてください」と先生が言った。

「昔って、どのくらい昔ですか」
「昔は昔」
「はあ」
そうめんの支度を、センセイとわたしはしていた。
茄でたてのそうめんをざるにあげ、あつっ、と言いながらわたしは耳たぶに指を持っていった。
「耳たぶに指当てるのって、効くんでしょうかね、ツキコさん」センセイは薄焼きたまごを細くきざみながら、聞いた。
「ドラマなんかで女優さんがやってるのを見て以来、そういうもんかと思ってましたが」
言われてみれば、ざぶざぶ冷やぜる水があるのに、わざわざ耳たぶに指を持っていくというのも妙な話ではある。センセイは手早くたまごをきざみおわり、次にはみょうがにかかるところだ。
「耳たぶに指を当てる動作って、ちょっといいじゃありませんか、色っぽくて」
「ツキコさんは、そういうの、似合いませんよ」
「悪かったですね」
そうめんを、操むように洗いながら、わたしは包丁を使うセンセイの手元を眺めていた。たまご、みょうが、紫蘇、わけぎ、きゅうりの千切り、たたきごま、梅干しの裏ごし、煮茄子。つぎつぎに薬味ができてゆく。小皿に、一種類ずつ盛る。わたしが水を切ったそうめんを大鉢にどさりとあけると、センセイは眉を寄せた。
「ツキコさん、そうめんはね、それじゃだめですよ」大鉢からざるにそうめんを戻しながら、センセイは言った。ざるを水の中に泳がせ、そのざるの中からセンセイはそうめんを小さい束に取っていちいち水を切り、大鉢に置く。
一束ずつをくるりとまるめるようにして置く。
「こうすると、箸で取りやすいでしょう。ツキコさんもやってごらんなさい」
食べちゃえば同じなんだからどうでもいいじゃないですか、という言葉はのみこんで、わたしはおぼつかない手つきでそうめんをひとすくいずつまとめた。センセイは薬味の皿を八畳間に広げたちゃぶ台へと運んでゆく。
開け放ったガラス戸の外で、せみが鳴いている。
土曜日の昼である。
梅雨明けの少し前ごろに一度、昼ごはんをここで食べた。
そのときは蕎麦だった。
ツキコさんは座っててくださいよ、と言われてちゃぶ
台の前にぼんやり座りこんでいたら、お膳をたてるくらいしてくださいよ、と怒られた。
台ふきを使い、取り皿をもたもた出していると、センセイが台所と八畳間をすばやく行き来しはじめ、そのうちに、ツキコさんはやっぱり座ってらっしゃい、と言われた。あなたが動くと、邪魔になります。
あれから二週間である。
梅雨は明け、暑い日が続いている。梅雨明け十日、と言うのだったろうか。
「センセイ、お料理きちっとなさるんじゃありませんか」以前に「料理はあまりしない」という言葉をセンセイから聞いていた。「このごろはまたね、ときどき料理するようになりました。妻が出奔した当座は毎食ごとにしかたなく作っていたわけですし」
「はあ」

本文P.6〜9から引用

 

 

 

 

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