天切り松 闇がたり
著者
浅田次郎
出版社
集英社
定価
本体価格 1500円+税
第一刷発行
2002/02/28
ISBN4−08−774560−0
これが、「男」だよ。「男気」だよ。中村勘九郎、大絶賛!

大正義賊の目細の安吉一家の活躍を描く痛快人情シリーズ、堂々の完結! シベリアの戦役で父親を失った息子とその母のために説教寅がひと肌脱ぐ表題作他、全6編を収録。

 

 

留置場は正月の二日が初湯である。
元日の朝には丸餅の入った雑煮が出るし、夕食の官弁も多少は色気のあるおせちまがいの代物で、当直の刑事が取調と称してひとりひとりを刑事室に呼び出し、食後の一服もつけさせてくれる。
よその所轄はどうか知らないが、とかく下町の警察は情が厚い。
もっとも、年の瀬に釈放されることもなく、拘置所に移監もされずに留置場で正月を迎える連中は、地場のやくざ者か懲役志願の無銭飲食と決まっているから、当直の刑事も看守たちも留置人どうしも気楽なものだ。
暮の御用おさめから正月の三日までは、地検も裁判所も休み、警察も開店休業のようなものである。
風呂場は室内運動場の並びで、コンクリートの密室に家庭用の浴槽が設けられ、凶器となるおそれがあるタイルはいっさい使われていない。
入浴は古株から順番に二人ずつ、むろん脱衣場には見張りの看守がつく。そんな初湯でも、留置人の数が少いからせかされることもなく、湯も熱い。
ふだんの湯なら洗い場にかき出される分だけ水をうめ続けるので、風呂というよりぬるま湯の行水に近い。
天切り松の背中を流しながら、地回りの兄貴も上機嫌である。
「それにしても、とっつあんの彫物はすげえな。ふつう年寄りのモンモンてのは、激だらけで何が何だかわからねえもんだけど」
「あたぽうよ」
と、天切り松は得意げに横顔を振り向ける。
「こいつア、名人と謳われた二代目彫徳の仕事だ。きょうび機械でザクザク彫るような刺青たァ、氏も素性もちがわい。右肩に重ね松、左に覗き丹頂、背中にゃ芒に盆の月」
「表うら合わせて盆と正月、八一のカブ─覚えちまったよ」
「おっと、年をとると同じ話を何度でもするってか」
「いや、風呂に入るたんびに聞かされてるだけだ」
朗らかに笑いながら天切り松は顔を洗い、孫のようなやくざ者に語りかける。
「にいさんも、長えな。何日になる」
「パクられたのが十一月の末だから、かれこれ四十日かな。とっつぁんがいるからいつまでたっても総房長にはなれねえ」
「俺を数に入れるな。シャバが退屈だから好きでへえってるんだー−おい、背中流してやる。そっち向け」
「すんません」
と、やくざ者は真青な彫物の入った背中を向けた。
「派手な柄だが、どうとも色気がねえな」
「色気、ですか」
「おうよ。モンモンは何たって色気だ。野郎を脅かすためのものじゃあねえんだぜ。片肌脱いだとたんに、お女郎がうっとり手を伸ばすてえのが、いい彫物さ」
「へえ……そうすか。そんなにていねいに洗ってくれなくてもいいよ、とっつあん。天切り松に背中を流してもらったってだけで、いいみやげ話なんだからよ」
「したっけ、何とも垢抜けねえ体だな。青ッちろくてぷよぶよしやがって」
「ブタバコ太りだよ。釈放になったらダイエットしなくちゃ」
からからと声をはずませて笑いながら、天切り松はやくざ者の首筋をこすり続ける。
「肥えてるせいじゃあねえよ。男の器量は背中を見りゃわかるもんだ。ばんたび話を聞かしている寅弥兄イなんざおめえ、上野の山の西郷さんみてえにでっぷりと肥えていたが、そりゃあひとめ見て頭の下がるような、侠気のある背中をしていなすった」
天切り松の闇がたりを譜んじるほど聞かされているやくざ者は、初湯のあたたかな湯気の立
ち昇る灰色の壁を、ぼんやりと見上げた。
「説教寅か……好きだな、俺。何だかファンになっちまった」

本文P.7〜9より 引用

 

 

 

 

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