■目次
練習編1(基本形;付録;箱と矢印);練習編2(化粧品と化粧文;区切り;イコール文;カスタムアレンジ);実践編(文を読む;パラグラフを読む;物語を読む);応用編(特別な化粧品;接着剤)

はじめに
その前にまず本当のことを
みなさん、はじめまして。
私は向山淳子といいます。
山口県下関市の大学で、英語を教えるのが私の仕事です。
今までに、延べ千人以上の学生をアメリカに正規の留学生として送り出してきました。
英語を教えた人数となれば、その何倍にもなるでしょう。
今は広い世界へ旅立っていく若者たちを見送る立場ですが、そんな私も、かつて一人、アメリカに向かったことがありました。
もうずっと昔この本を読んでいる方の何割かは、まだ生まれてもいない時代の話です。
1962年の1月にはじめてアメリカの地に降り立ってから、私は実に二十年近くもアメリカで生きることになりました。
その間に結婚し、大学院のMaster's degreeを取得し、二人の子供を産み育て、数々のアルバイトを経験して、正規の仕事にも就きました。
暮らしはいつも楽ではなく、何度も絶望的な状況に直面しましたが、そのたび、どうにかこうにか乗り越えてきました。
もともと私が留学したのは決して崇高な理由があったわけではなく、実に単純な思いからでした。
それは先に留学していた今の夫と結婚したい一心での渡米でした。
当時の状況ではただ結婚のために渡米するというわけにはいかず、留学するという事情ならアメリカも比較的たやすく受け人れてくれたためでした。
いくら若かったとはいえ、この考えがあまりにも甘かったことはすぐに身をもって思い知らされました。
着いて早々、空港で大切な花嫁衣装の人った荷物を盗まれ、言葉も通じない国で、助けを求めることさえままならず、わけが分からないまま、新しい生活に突入しました。
奇跡的に荷物は戻ったものの、その日の生活費を稼ぐためのアルバイトと、合間をぬっての学生生活という慌ただしい日々がすぐに始まりました。
まともに挨拶もできないのに、よりによって仕事は電話番・・・・・授業に出れば、宿題の内容はおろか、宿題が出ていることさえも分からない始末。
毎日泣きながら必死に勉強しましたが、英譜はなぜか上達しませんでした。
留学すれば誰でも英語ぐらい憶えるというのは迷信です。
柔軟な子供の脳ならともかく、ひとつの文化や言語で固まった大人は、ただ英語の世界に人るだけでは英語をマスターすることはできません。
その証拠に多くの日系…世の移住者には半世紀アメリカで暮らしたあとも、片言の英語しかしゃべることのできない方がたくさんいます。
そんな私を救ってくれたのが、なんとなく日本から持ってきた一冊の文法書でした。
日本で塾の教師をやっていた私にとって、それはなじみ深いものでしたが、実際の英語に触れた後、読み返したその内容は前とはまるで違う印象のものでした。
バラバラだったいろんな知識の破片がはじめてくっついていったのです。
「そういうことだったのか」と感じることがたくさんありました。
いくら悩んでもどうしても分からなかった単純な疑問の答えも、あたりまえのように載っていました。
成人した大人が外国語を憶えるには、ある程度の文法の知識がどうしても必要であることを、その時思い知らされました。
そして、同時に文法だけを学んでも意味がないことも分かりました。
文法は必要なものですが、実践しない文法などまるで無意味だということです。
やがて、英語を読み、書き、しゃべるようになって、多くのアメリカ人と友達になり、家族のように付き合っていく中で、言語は生き物であり、感情をともなうものであり、決して机の上で終わる教科などではないことを痛感しました。
やがて、日本に戻って大学で教鞭を取るようになり、私はこの考えに基づいて多くの学生に、英詔について、そして、アメリカという国について今まで教えてきました。
本文P.3〜5より引用
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