
「この谷を飛び越えたら、
私は違う国に行ける」
彼女は水たまりをじっと見つめて言った。
1.
僕の名前はテル。本当は照夫だけどみんな「テル」って呼ぶ。
僕はコインランドリーで働いている。洗濯物が盗まれないように見張っている仕事だ。
店はばあさんの持ち物だ。だけど最近女の下着を盗む悪いヤツが多いと困っていた。
それで僕がこの仕事を与えられたわけだ。
今までに何度か仕事をしたけど、どれもうまくいかなかった。
僕には合わない仕事だったとばあさんが言っていた。
僕の頭には傷がある。
子供のころ、マンホールに落ちたときにできた傷だ。どうしてそんなところに落ちたのかは分からない。
きっとぼんやりしていてふたが開いていることに気がつかなかったのか、穴に興味があってのぞき込んでいたときにでも落ちたんだろう。
実際、僕はそのときのことを全く覚えていないし、ばあさんもただ「マヌケだから」と言うだけで、詳しくは教えてくれない。
とにかく僕はその事故以来、頭に傷ができていつでも帽子をかぶるようになり、人よりモノを覚えるのが下手になって、人よりモノを忘れるのが得意になった。みんなは脳ミソにも傷があるからだって言うけど、頭の中はのぞけないので僕には分からない。
僕は今日も店に向かう。
川沿いの道を毎日三十分かけて行く。
この町はちょうど隣の県との境にあり、大きな川とそこから分かれた小さな川が横切っている。
僕が沿って歩くのはその小さな川の方で、春になると両岸に桜が咲き並び、川面ではいつでも水鳥がやってきて水遊びをしている。
釣りを楽しむ人も多く、どっちが大きなコイを釣り上げるかで競争したりしている。
歩いているとたくさんのにおいがする。
川のにおい、家のにおい、地面のにおい、空のにおい。
朝と夜はもちろんのこと、同じ道なのに日によって全く違うにおいがする。
時々においにばかり気を取られて失敗をする。知らない間に違う道をどんどん行ってしまい、気がつくと隣の隣のまたその隣の町だったりする。
だからあまり真剣ににおいを嗅がないようにしている。
店を開ける時間に遅れてしまうし、僕は犬じゃないからだ。
店は坂道の途中にある。
坂はとても長く、上がってきた人にとってはまるで山登りをしているようなもので、疲れたのでそろそろ休憩したいと思い始めるころに店がある。
ばあさんはコインランドリーなんかやめて喫茶店にでもした方がもうかると言っている。夏には冷たいかき氷、冬には熱いおしるこを坂下の二倍の値段で売るそうだ。
ばあさんは今までにたくさんのお店をやってきた。
布地屋、傘屋、ガラス屋、は虫類専門店、ゲームセンター、ボウリング場、クレープ屋、占い師。実際聞いただけで見たことはないが、どれもこれもうまくいかなかったらしい。
きっと喫茶店もうまくいかないだろう。
なぜならばあさんは最近店に来ず、三件となりにコンビニがオープンしたことを知らないからだ。
僕は今日も店を開ける。
毎日最初にする仕事だ。
カギをどこに入れたのかいつも分からなくなる。
同じ位置のポケットに入れているつもりなんだけど、いざ出すときになると必ず違ったポケットから出てくることになる。
まるで体の中をすり抜けるみたいにとんでもない所から現れる。
ばあさんはひもで首からぶら下げておけばいいと言うが僕はしない。
ギをひもでぶら下げるなんて子供のすることだ。
店の広さはそこそこだ。
そこそこというのはばあさんがよく使う言葉で、広いという程じゃないし、狭いというほどじゃない。
朝は必ずモップがけをするけど、十一往復と半分で、窓のぞうきんふきは上下に二十五往復といったところ。
コインランドリーとしてはちょうどいいぐらいの大きさらしい。
洗濯機が十台で乾燥機が七台。
一度に全部が使われることはめったにないけど、それでも雨が続いた日なんかはたくさんのお客さんが来てくれる。
ばあさんは明日は雨が降りますようにって奇妙なお祈りばかりしているけど、あまりにも大勢のお客さんが来てしまうと僕が大変なことになる。
なぜなら僕の一番の仕事はお客さんの洗濯物が悪い人に盗まれないように見張っていることで、パトロール隊のようにじっと目を光らせていなければならない。
だから店中に人があふれていると、どっちを見ればいいのか分からなくなってしまうからだ。(本文P3〜6より引用)
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