あかね空
著者
山本一力
出版社
文芸春秋
定価
本体価格 1762円+税
第一刷発行
2001/10/15
ISBN4−16−3204430−X
入魂の書き下ろし時代長編。

京から江戸に下った豆腐職人・永吉一家二代の有為転変に、かけがえのない家族の絆を描く入魂の書き下ろし時代長篇。

■文学賞
2001年 第126回 直木賞受賞


深川蛤町の裏店が、宝暦十二(一七六二)年八月の残暑に茄だっていた。

長屋裏手を流れる大横川からの川風も、入り組んだ路地をわたる間に涼味を抜かれてぬるくなる。
風は、お愛想がわりに軒先の風鈴を鳴らして過ぎ去った。
使い込まれて黄ばんだおしめや、紺木綿の股引、腹掛けが井戸端の物干しに連なっている。
この新兵衛店も、子沢山の職人が多く暮らす裏店だった。
三軒長屋雛い井戸を取り囲む形に四棟建てられていた。
どの棟も端の一軒は板の間の仕事場が造作された二間造りで、他は三坪の土間に狭い流しと六畳一間だ。
長屋木戸わきには、商い向けの平屋が三軒並んでいる。
なかのひとつには、焼き芋を商う長屋差配の新兵衛夫婦が暮らしていた。
座っているだけで汗ばむ、夏の昼前どき。
届職の桶屋から、木口を叩く調子のよい音が響いていた。
「それじゃあおとっつあん、手桶ふたつ、船橋屋さんにお納めしてきますから」
紺地の井桁緋に紅色の細帯を結んだおふみが、戸口から父親の源治に声を投げた。
目鼻の造りが大きく色白なおふみは、自地だと太って見えるのを気にして、真夏でも紺緋を着ている。
汗押えの手拭いを小さく畳んでたもとに入れると、カタカタッと下駄を鳴らして井戸端を通り過ぎた。
裏店の木戸が、照りつける陽を受けて短い影を落としている。
その陽を全身に浴びて、大柄な男が木戸口に立っていた。
木戸の横板には、長渥住人の商い屋号や名前入りの千社札が隙間なく貼り付けられている。
尋ね人を探すかのように札に見入っていた男が、ひとが近寄ってくるのを見て木戸の上から目を移した。
男は、あたまが木戸枠にぷつかりそうなほどに大柄だ。
「ちょっとすんまへん。蛤町の新兵衛店をたんねてますのやが、ご存知やったら教えてもらえまへんやろか」
「新兵衛店ならここだけど」
「やっぱりここでおましたか……」
深川では聞きなれない上方説りの男が、ふうっと息をついた。汗と土ぼこりとで汚れの目立つ首の手拭い、擦り切れそうなわらじの紐が男の長旅をうかがわせた。
肩には大きな柳行李を振り分けにして担いでいた。
「わては京から下ってきた永吉いいますけど、差配はんはどちらにおられますんやろ。えらい面倒かけますが、連れてってもらえまへんやろか」
長い道中で日焼けした大男の顔は、仁王のようにいかつい。
しかしおふみが、相手にいやな心持を抱いた様子はなかった。
男には父親同様の、いかにも律儀そうな気配が漂っていたからかも知れない。
「いいわよ、ついてらっしゃい」
おふみは下駄を鳴らしながら、永吉の先に立って長屋に戻った。
「新兵衛さん、お客様」
井戸端の日陰で空樽に腰をおろし、煙草を吸っていた新兵衛が、気だるそうに顔を向けた。
おふみの立っている場所は強い日差しで白くなっている。日陰にいた新兵衛は、眩しげに目を細めて寄ってきた。
「お客さんてえひとはこちらかい」
真っ黒な顔いっぱいに汗を浮かせた男を、新兵衛は渋い目で見上げた。
「差配の新兵衛はんで?」
「あたしだが、おまいさんは」
「大坂の堺屋伝右衛門はんからの書付を持っておりますが、こちらのお店を拝借しとうて出てまいりました」
「大坂の堺屋なんて、あたしゃ知らないよ」
「あっ、違いました、日本橋青物町の広弐屋はんでおました」
「広弐屋さんだって?」
広弐屋は日本橋で名の通った雑穀問屋の大店である。
遠縁のものがそこに奉公していることが、新兵衛の自慢だった。
「おまいさんが、あすこの口ききで来たてえのかい」
「書付も旦那はんから頂戴しました」

(本文P.7〜9より引用)

 

 

 

 

このページの画像、本文からの引用は出版社、または、著者のご了解を得ています。

Copyright (C) 2001 books ruhe. All rights reserved. 無断でコピー、転写、リンク等、一切をお断りします。