死ぬことは、生きること
 
  あなたたちの人としての尊厳ある死が、遺された私たちに深い愛と、生きる勇気をくれた! 父、母、そして息子 ・・・三人の肉親を看取って・・・  
著者
赤柴文子
出版社
新水社
定価
本体価格 1800円+税
第一刷発行
2001/11/30
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ISBN4−88385−026−9

 

はじめに

平成九年九月十二日、わずか百日程の闘病の末、息子を失った。
膵臓がんだった。
三十八歳という若さで、突然のがんとの遭遇、そして、死。

看取りを終えた後、私に残されたものは、「生と死」の問題だった。
はからずも、二十五年前に父を、その後十五年程経て母を、更にその六年後に息子と、三人の肉親の最期を看取った私に、それぞれの死は何を語り如何なるメッセージを遺していったか─。

今、時を経て静かに思いをめぐらせ、父が、母が、そして息子がそれぞれの日々の中で語り、遺していった魂の声をまとめてみることにした。
最初に迎えた父の死は、わずか二十日程の入院後の大往生であった。
当時、昭和五十一年頃は現在のような老人問題は、まだ社会で深刻な問題として取り沙汰されていなかった。

一人の人間として、正しく信念を持って生き、年を重ねてゆく……その日々の中でいつか迎える死を、密かに思いながら─父はこのような生き方だった。
生き死にの問題は、一人一人異なるものだと思うが、父が「長生きすれば恥多し」といっていた言葉が、とても深いひびきをもって、今甦る。
私自身が高齢社会の一員となった現在、恐ろしいまでの実感を伴って心を打つ。

 

また「いい時期に、人生の幕引きをしたい」「棺を覆って始めて人の真価が問われる」とも言っていたが、そうはいっても、なかなか願うようにはいかないものだ。
だからといって人間気ままに生きていてはならないと、考えるようになった。
年をとれば、いつか死ぬただそれだけのことだと思いつつ、それなら、どのように生き続け、そこに至るのか。

自分の生は、どうありたいのか、どのような死を迎えたいのか。
常に今日ある生を大切に、この一日の幸せと充実を明日につなげ、一日一日を紡ぐ努力こそが、よき最期を迎える鍵ではないか。
これら父から遺された最後の言葉にこめられた深い哲理を胸にしっかり受けとめて、その意義を探り求めながら残された生を生きたいと思う。

二人三脚で五十数年つれ添った夫が、その生を完全燃焼させて無事に逝くのを見送ってから十五年後に、八十七歳で逝った母の死もまた、私に実に多くのことを考えさせ、遺し ていってくれた。

それは、大きな驚きであり試練でもあった。
五百日余の常臥しは、母にとって本意ではなかっただろう。
しかし、母の日々の生きざまは思わず快哉を叫ぶ程に見事なもので、人間の持つ底知れぬ生命力の根源をかいま見せてくれた。

元来、精神力の強い母は最期までそれを失わなかった。
今一度、元気になりたい、その思い一途にがんばり続けた母。
家で尊厳死を全うしたいとの切なる願いから、床について後はますますその力を深めていったように思う。

父の死も、母の死も、生の完全燃焼の結果として迎えたものだ。だからこそ、それぞれの葬儀の際のあの心を潤す感激が生まれたのだ。
天候、多数の会葬者、周囲の状況など完壁なまでの出来栄えは、決して偶然ではない必然がもたらしたものと、心に銘じた。
どんな時にも、いかなる事態が生じても、人間の高適な精神を持ち続けることの大切さを、自らの生きざまと死を通して両親が教え遺してくれたことに、心から感謝しつつ、父と母が、私に遺してくれた人生の最終章のあり方を、今、真剣に実行し生き続けてゆきたいと、切に願っている。

最後に、親より先に逝ってしまった息子よ。
もう、四年もの月日がたちますね。
そちらはどうですか。

幼かった日のように、おじいちゃまとおばあちゃまに甘えて、可愛がられているのでしょうか。
突然のがんとの遭遇、がん告知、それに続く末期がんの死の告知に立ち向かっていったあなたは、実に立派だったと、今、しみじみ思います。
あなたの、残された日々のあまりにも短いことを知って、悩み、苦しんだ末、あなたには短いけれど充実した悔いのない人生の終焉を迎えてほしい、と願って決意し、お父さんから、あなたに告げてもらいました。

─いつ、だれが、どのように─―I告知するのか。
ノウハウは何一つない現状の中で告知が出来るのは、親しかないと決心したのです。
「本当のことをいってくれて、ありがとう。お母さん、ゴメンネ。何も出来ないまま、先に逝くなんて……」

告知直後の言葉をお父さんもお母さんも、あなたの遺言として大切にしています。
愛する妻子との壮絶な別れの苦しみ、そして遠からぬ死を納得して迎えたいと冷静に耐え続けていたあなたの姿を、ほとばしる鳴咽をこらえながら思い出しています。

 

第1章  父の死─―「長生きするば恥多し」

人生の幕を引く

春彼岸の墓地で

明治三十一年生まれの七十六歳の父が、初秋のある日庭を眺めながらいった。
「人間、終わりが大切だ。私も、いい時期に幕を引きたい……」と。
「いい時期に幕を引くって、どういうこと?」と問い返す私に、笑みをうかべながら、「人間、あまり長生きすれば恥多し、といって、自分のことがきちんと出来なくなって人さまに迷惑をかけながら生き続けるのは、あまり感心したことではない……。

まあ、出来れば八十歳位がいい時かな」といった。
八十歳といえば、あとわずかな年月ではないか、目の中に入れても痛くない程に慈しみ、愛している二人の孫は、まだ、やっと高校生なのに……。
「せめて、元康とえりかが大学を出て、二人前の社会人になる頃までは、生きていてほしいわ。八十五歳位までは……」父は、再び笑みを浮かべながらいった。

「そうだネ。まあ、その位までは生きられるかナ」それきり、そのことは忘れたように話題にはのぼらなくなった。
その前年、姑が突然脳梗塞で倒れ入院した。症状が軽かったので、生命に別条はないが長期戦になりますよ、と医者にいわれた。
どの位の年月を要するのか、見当もつかぬまま十日程がたったある日、幼児洗礼を受けたロシア正教徒の姑はニコライ堂から神父様に来ていただき、長い時間二人だけで話を交わしていた。

最後に、神父様の前で職悔をし、心が落ち着き安らかだと嬉しそうにいった。
その翌日の夕方、何の前ぶれもなしにあっけなく、姑は心筋梗塞を起こして他界した。
七十六歳であった。父は折にふれ、「いい最期だ。

私もあのように逝きたい」と、もらしていた。
父は姑より一歳若い、七十七歳になっていた。
年が明けて、いつか寒さも和らぎ花店のウインドウに春の花がとりどり溢れ、何となしに心が浮きたつ頃となった。

例年のことにて、父母と私の三人で実家の彼岸会の墓参に出かけた折りのこと、墓石を丁寧に洗い清めている母の後ろから、「お母さん、私が亡くなったらこの北向きの墓石を移動して東向きにし、墓地を半分にしてそこに将来文子達の墓を作らせるといい」そういいながら持っていたステッキで、東西に長い矩形の墓地の真ん中に線を引いた。

立ち上がって振り向いた母と、「ええ一っ」といって絶句している私に向かって、さらにこういった。
「今は、まだどうということもないが、何十年かしたら文子たちも墓に入る時がくるだろうから……。そうしたら元康たちが墓参に来て、その時に私たちの墓に水の二杯も手向けて参ってくれたらいい」その時、二十数年後にこの墓地に私自らが息子の墓を建立するなど、毛程も思いもしなかった。

孫大好きの父が、この愛する孫たちに参ってもらうことを望んでいる気持ちばかりが、いたく心に沁みて有難く父の言葉を聞いていた。
母も、「よく分かりました。和尚さんにも話して必ず、そのようにしますからね」と言って、墓石の花立てに、家から持ってきたとりどりの庭の花をいとおしむように入れていた。

私は、お線香の煙が目にしみて、思わず涙をこぼしていた。
教育者として父は、生涯を教育畑一筋に生きてきた。
三十三歳の若さで小学校の校長となり、その後、都の教育庁の視学官に任命された。

昭和十六年十二月に始まった第二次世界大戦が、次第に激しさを増すうちに日本は劣勢となり、ついに東京も空襲を受けるようになった。
それとともに東京の小学生の集団学童疎開が実施され、当時、父が担当していた浅草六区内の児童たちが、親元を離れて遠い山形県へ疎開した。
児童と一緒に父も山形県へ疎開した。

山形に長期滞在することになったが、月に一、二度事務連絡その他で帰京する父に会えるのが、それは楽しみだった。
丸刈りにした頭に戦闘帽をかぶり、脚にはゲートルを巻き、カーキ色の国民服に身を包んだ父の姿は、別人のようだった。
また、いよいよ敗戦が色濃くなってきた頃、東京大空襲で家も学校も、何もかも焼夷弾で焼きつくされ、親や家族を失った多くの疎開児童たちの痛ましさを、はるか遠くに視線を向けて、天に話しかけるようなあの時の父の顔を今でもはっきりと覚えている。

終戦後はがらりと変わった学校教育の立て直しに、再び校長として現場復帰した。
戦後の潭沌とした自由主義社会の中で、教育の現場もまた問題が山積して、学校管理も並み大抵ではなかったようだ。

しかし、父は変わらぬ人間愛に根ざした深い哲理をもって、粛々と難問に取り組み、問題解決を果たしてきた。そのような父の一面を、没後に出された関係方面からの文書で、私は詳しく知ることが出来た。
父と娘周囲が、春から初夏へと移り変わり緑の陰影が庭を染める頃、父は、たまに足の衰えを口にするようになった。
それでも、帽子を被りステッキを携えて、家から一キロ程の井の頭公園への散歩は欠かさなかった。

歌舞伎役者の羽左衛門のようだといわれていた父の面ざし、腰もシャンと伸びて、若い頃はテニスの選手として活躍した、細身ながら風格に満ちた姿が、好きだった。
夕食の後、夜具の支度をしている横で父はポツリといった。
「文子たちと一緒になって、十年近くになるかな。

この年月は、本当に幸せだったヨ。ありがとう」世話になるばかりで、親孝行らしいことの一つもしていない私は、厚かましくも、「まあ、それでは少しは親孝行になったかしら?」そういって笑った。
父にそういわれたことが心に沁みて、この上なく嬉しかった。
父と二人の孫私たちは結婚して、三年目に待望の子供に恵まれた。

男の子だった。父の喜びようは大変なもので、ついぞ見たことのない程の手放しのそれで、「ばんばんざいだ」といった言葉に母は驚いたそうだ。当時、小田原市国府津に住んでいた私たちが、子供づれで遊びにきた時のために、父は庭に砂場を作ったり、少し大きくなると青梅の鉄道公園や、多摩動物公園に連れていってくれたりした。
子供が二歳を過ぎた頃、主人が、東京の大学の研究室に通うことになり、両親の家に同居することになった。

この一年半程の両親との同居は、息子の心の成長に、それは多くの大切な芽を植えつけてくれた。
年子で生まれた娘が、よちよち歩きを始めた頃、再び小田原に帰り、主人はしばらくを、そこから研究室に通い続けた。
父と母は、別れた孫たちの可愛さにひかれ、何かある毎にやって来てくれた。
二人の孫の手を、しっかりと握りしめて海岸や公園に連れてゆく父の姿は、ご近所の方たちに感心されたりした。

 

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