御宿かわせみ 初春弁才船
 
  伊丹の新酒を江戸に運ぶ新酒番船の一艘が難破船頭の息子と知り合った「かわせみ」の面々が心配するなか船頭が生還したとの知らせが表題作など全七篇収録  
著者
平岩弓枝
出版社
文藝春秋
定価
本体価格 1095円+税
第一刷発行
2001/11/30
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ISBN4−16−320570−5

宮戸川の夕景

大川が宮戸川と呼ばれるあたり、竹町の渡しの本所側に肪ってあった猪牙に半裸体の女の死体が流れついていたのは、江戸にこの冬一番の霜が降りた朝のことであった。
船頭が番屋へ知らせ、やがてかけつけて来た役人が岸へひき上げられている死体を調べてみると、首には荒縄が巻きつけられて居り、絞め殺された上で川へ投げ込まれたらしいとわかった。

なにしろ、湯もじ二枚の若い女の殺人事件なので、忽ち、瓦版も出たが、神林東吾がその話を聞いたのは深川長寿庵の長助からであった。
たまたま、軍艦操練所の勤務帰りに深川へ寄る用事があって門前仲町を通りかかると、番屋の前に長助の顔が見えた。

で、なにかあったのかと近づくと、「若先生、滅法、朝晩、冷えて参りまして……」
両手で衿許をちょいと寄せるようにして挨拶をした。

「只今、お帰りで……」
「ちょいと知り合いが体を悪くしてね。あんまり長引いているようなので、どんな具合かと寄ってみたんだが、なんとか回復に向ったようなんだ」軍艦操練所の同僚の一人だが、どちらかといえば蒲柳の質で、この季節、属邪をひくと必ずこじらせて厄介なことになりやすい。

人柄は悪くないし、仕事熱心な男なのに、体が弱いというのは泣き所で、上司の中には、「あいつ、まだ休んでいるのか」と非難がましくいう人もいて、東吾は内心、案じていた。
当人も承知していて、治りかけに無理をしては、また、ぶり返すという悪循環が多い。

今日、立ち寄ったのも、あまり周囲に気がねをせず、静養するようにというためだったが、当人にしてみれば、なかなかそうも行かないに違いない。
実際、「神林どのは御健康で、まことに羨しい」といわれてしまうと、気のきいた見舞の言葉も出て来なくなる。

が、そんな話は長助にも出来はしない。
「どうも、この節、酷い殺しが増えまして、この寒空に女を素っ裸にして荒縄で絞め殺し、川へ投げ込むってのは、鬼のやることとしか思えません」

長寿庵のほうへ歩き出しながら長助がいい、東吾は、はじめて瓦版が猟奇的に書き立てたというその事件を知った。
「死体の身許はわかったのか」

「いえ、今のところ、お上に届け出た者もございませんそうで……」
あれだけ派手に書かれたのだから、ひょっとして自分の娘、或いは知り合いの誰それではないかなぞと申し出る者があってもよさそうなものなのに、二件もない。

「若いのか」
「御検屍のお役人の話では二十七、八、まあ三十は過ぎていまいとか……」


「器量は……」
「瓦版はいい女だと書いていましたが……十人並ってところでござんしょうか」

それにしても、なんで裸にしたのかがわからないと長助はしかめっ面をした。
「畝の旦那もおっしゃっていましたが、仮に男と女のいざこざで殺されたにせよ、荒縄で絞めるってのは、余っ程、相手が憎くねえとやれねえもんじゃございませんか」

どっちみち殺すのだから、なんでもいいようだが、人情でもう少し、ましなものを使いそうなと長助は苦笑した。
「可愛さ余って憎さも百倍って奴かな」と東吾はいったが、長助はしきりに首をひねっている。

「この節、情のねえ連中が増えているからなあ」

 

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