女王の百年密室
 
  女王が統治する幸福で豊かな楽園。不満も恨みもない世界で起こる空前の殺人事件。女王の塔の中で殺ざれていたのは……。完全なる密室。そして、完全なる犯罪。誰が、どうやって、何のために……?僕とパートナのロィディは推理を開始する。しかし、楽園の住民たちは、みな「殺人」の存在ざえ認めない……。新世紀=森ミステリィの黄金傑作。  
著者
森博嗣
出版社
幻冬舎ノベルス/幻冬舎
定価
本体価格 900円+税
第一刷発行
2001/12/15
ご注文
ISBN4−344−00905−3

上品な小都市ほ、河でくぎられた祭りの平原の向うで、地平線に夢の崖を刻みつける。
それまのに、すべて灼熱の光ほ、むせるような髪毛の香気を刈られた干草の上で深めるため。
からみあった空気の絃に指で戯れるむき出しの足と手とに縁飾り蒼つけるたあまのだ。
(大いなる自由/Jvlien Graco)


プロローグ

犠牲になるものを笑ったけれど犠牲になるものは幸いだった夢。
しだいに平坦になる意識の下で、僕の躰は、サーカスの曲芸を連想させる目映い光の舞い、その華やかさに応えて拍手を惜しまない水辺の流れ、そして、ねっとりと冷たく落ち着きはらった傍観者としての大気、そんな互いに相容れないものたちに包み込まれて、いつしか、人生のごく間近な目的を忘れるための眠りへ、さあ一緒においで、と僕の精神を誘っていた。

壁。
不快なほど力強い日差しは、しかし、奇跡的に出現した雲に今は阻まれ、密かに残留する暖かさの記憶を、苔に覆われたコンクリートの壁に触れる僕の手だけが、緩慢にも感じようとしている。

息。
まだ、僕は生きているようだ。
どうして、生きていると判断できるのかといえば、ときどき耳もとで鳴る微かな昆虫の羽音が鬱陶しいと確かに感じたからだった。

体力は落ち、気軽に立ち上がれる状態ではなかったけれど、不思議に焦ってはいない。
もともと、僕には、生というものに対する執着が、つまり、何かを越えてしまったときに、ふと足を止め引き返そうとする摩擦が、決定的に不足している。

それが僕の傾向だ。

雷。
恐ろしい轟音が聞こえる。

あらゆる生命を怯えさせる共振の波長。
瞬発的な爆音ではない。

長く一直線に駆け抜けるような響き。
空から降りてくる竜の鳴き声を連想させる。

何だろう?
僕はぼんやりと考える。

飛行機ではない。
人が造ったものには出せない恐ろしい音だ。

僕は、夢から既に醒めていた。
こちらへ向かってくる足音。

その歩調には、ユーモラスなリズムがあって、僕の大好きなロイディだとすぐにわかる。
衛星からの長い波長の光が谷間で死角になるので、その信号を求めてロイディは散策に出かけていた。

彼が戻ってきたのだ。目を開けてみる。
天気はそれほど悪くもなかった。

「あれ?雷が鳴っていなかった?」
「飛行機の音だと思われます」

「そうかな、それにしては、なんだか低い音だったんじゃない?」
「そのとおりです。回転系の推進装置としてはサイクルが低過ぎます」

「つまり、何?」
「不明です」

「見えなかった?」
「見えませんでした。クルマのレーダを使いますか?」

「お腹が空いたよ、ロイティ」
「食べるものはありません」

そんな悠長な口がきけるのも、ついさきほど、この川の水を思い切り飲んだあとだったからだ。
それまでは、何かを食べたいなんて考えもしなかった。

ただただもう喉が渇いて、苦しかった。
別に精神的にどうってことはなかったのだけれど、つまり、僕の躰が苦しかった。

水分が不足するとこうなるのだな、と最初は簡単に考えていたのが、どんどん酷くなって、精神にまで余裕がなくなってしまった。
そういった経験はもちろん初めてのことだから、どうしたら良いのかも、わからなかったのだ。

もう三日も、僕は何も食べていない。
水を飲んだのだって、二日ぶりのことだった。

こんな状況になるなんて、想像もしていなかった。
今となってみれば、エナジィ・チャンバが故障してしまったときに、有能で悲観的な人間なら、最悪のケースは予測できたはずだ。

僕の場合、有能でも悲観的でもないから、やっぱりしかたがない。
けれど、まさかナビゲータまで狂っているなんて考えもしなかった。

おそらく、予備パッケージに交換するときに、一瞬のパルスでアクセラレート・センサがリセットしたのか、それとも僕の躰の静電気のせいで、コア・システムのどこかでペキュリアリティが飛んだのか、可能性はどちらかだろう。

ちゃんとボディ・アースはしてあるはずなのだけれど、カーボン・ファイバの耐久性なんて、高が知れている。
目的に向かって真っ直ぐに進めば、少なくとも二十四時間以内に、すべての問題は解決する、少なくともお金さえ支払えば、解決するはずだ、と信じて走っていた。

ただし、締切遅れによる諸々の障害、たとえば、編集部の上司との関係とか、将来の仕事
に関する条件とか、そう、もっと小さなものなら、コンテストの入賞とか、を除けばだけれど……。

それが、もっと大きな危機に直面したおかげで、細やかな心配は、すっかり遠のいてしまったわけだから、これは一種のパラライザといっても良いだろう。
やっぱり、僕は楽観的な人間だ。

そう、死ぬときはきっと自由なんだって信じている。
たぶん、あそこで道を間違えた、という心当たりが三つほどあるけれど、もう遅い。

人生なんてこんなものだ、と思う。
ああ、それにしても、空腹。

なんて原始的な悩みなんだろう。
「何か、探してきてよ、ロイディ」僕は溜息をつく。

「何をですか?」
「食べるもの」

「ありません」
ロイディは大げさに首をふった。
「ここ、およびこの周辺には、食べるものはありません」

(本文より引用)

 

 
 

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