処女航海
 
  伝説のプロセイラーが描く、一度きりの海路を行く男たちの熱きプライド。 《生死を見つめた男の洞察は静けさを装っているが、読むほどに熱を帯びて深く感動させられた。 中谷美紀》 ・・《人の一生とは、大海に出て後戻り出来ない一回限りの”処女航海”を続けることではないだろうか。原健》  
著者
原健
出版社
幻冬舎
定価
本体価格 1500円+税
第一刷発行
2001/10/30
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ISBN4−344−00124−9

夢の中で電話が鳴っていた。
その夜、久し振りに出場した小名浜─―大洗間のヨットレースを終えて永福町の自宅に戻ると、時計の針は夜の十一時を回っていた。
レースに優勝したことも手伝って心地よい疲れが全身を満たし、風呂を出てビールを一杯飲むと、もう眠気に抗いきれなくなっていた。
いつもは寝付きが悪いのに、その夜はベッドにもぐり込むと珍しく易々と眠りの渦に巻き込まれていった。
一回、二回、三回、やはり電話の着信音が鳴っている。
夢の中で受話器を追いかけながら目を開けると、ロールシャッハテストのような天井の模様がうすぼんやりと見えていた。
電話は鳴り止んでいた。
やはり夢だったかと思って寝返りを打つと、隣で寝ていた妻が受話器を持ったまま、無言で僕の目を見据えていた。
「木家下さんの奥さんから……」反射的に時計に目をやると、零時を少し回っていた。
眠りに落ちて一五分も経ってはいなかった。
ただ事ではない何かを半ば確信しながら受話器を受けとった。
「木家下が……。木家下の息が止まってるの……」その声は震えていた。
「家で、家で倒れて心臓が……心臓が止まっちゃってるの……」
「奥さん、落ち着いて。今、何処に居るんですか?」
「救急車で運ばれて、今、日医大なの。根津にある……」
「わかりました。今すぐ行きます」電話を切り、急いで身仕度をし、妻を伴って家を出た。
夜半から降り始めていた冷たい雨が、うっすらと街灯の光の中で斜線を描いていた。
三連休の中日ということもあって、都心の道路は空いていた。
タクシーの中で普段ならばイラつく赤信号が、その夜は妙に心を落ち着かせてくれた。
病院に早く行かねばと焦る気持と、現実から逃れたいまさかの気持が交錯していた。
だまりこくって何本も煙草をふかしながら通り過ぎていく元気のない街並を見るともなく眺めていると、「木家下さんが死ぬはずないよね……」妻が眩いた。
(死ぬはずない……)
僕はこっくりと声もなく頷いた。
病院に着くと、薄暗いロビーには一〇人ほどの疲れきった様子の人たちが思い思いの苦悩を携えて佇んでいた。
奥さんはロビーには居なかった。受付で木家下さんの居場所を確かめると、男は無機質な声で、「集中治療室でしょう」と答えた。
待つしかなかった。
と、その時、後ろから声がした。
「原さんですね」
「はい」
「私、木家下の義兄の江川です。今、集中治療室を出て病室に入ったみたいです」
「えっ、ということは心臓が動き出して、落ち着いたということですか?」僕はたたみかけるように質問した。
「はっきりとはわからないけれど……、なにしろ病室に移ったというんですから……」

 

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