Pの密室
 
  5歳の時には名探偵。御手洗潔、天才の証!将来を決定づけた陰惨で不可欠な事件。『僕がおとななら、いくらでも犯人を捕まえれるのに』 5歳の御手洗潔は叫んだ!不可解な自動車事故と店内に散乱するガラス片の謎(『鈴蘭事件』)。堅牢な密室でしんだ画家。赤く塗りたくられ床一面に敷き詰められた子供達の絵は何を語る!?  
著者
島田荘司
出版社
講談社NOVELS/講談社
定価
本体価格 800円+税
第一刷発行
2001/11/05
ご注文
ISBN4−06−182220−9

1

御手洗潔に関する事件なら、大小や難易度を問わず、幼稚園時代のものでも、託児所に預けられていた頃のものでも、なんでもいいから話せという読者の声が近頃とみに大きくなった。
こういう読者の意見では、御手洗という頭脳人間は、子供の時、積木を積んでいても、金魚鉢の金魚を眺めていても、きっと何ごとか推理をしていたはずで、だからそれを話せというのだ。

そんなことを言われても、そんな大昔のことなど私は知らない。
幼稚園児御手洗の冒険談という計画は、これは言った読者も冗談であろうと思ったから、私も真剣に取り組むことはしなかったが、事実は小説よりも奇なりとはよく言ったもので、最近ふとしたことで、彼の幼稚園時代の出来事が本当に解ったのである。

これは私にも、まったく予想外のことだった。むろんこのエピソードを教えてくれた人は、ある程度世間に名を知られるようになった今の御手洗を意識して、話に多少の粉飾を加えているかもしれない。
だが友人のことをよく知る私などには、この程度のことは充分あり得そうに、聞いていて思えた。

これを見れば、御手洗という男は、よくよく生まれついて刑事捜査に手を染める運命にあったことが知れる。
幼稚園時代の難事件といっても、別に砂場での園児同士のトラブルとか、五歳児の友達が飴玉を盗まれたとか、そういった類いの難事件ではない。

おとなの世界に起こった、それも警察がらみの本格的なトラブルであり、かなり喜劇的な要素はあるものの、新聞沙汰にもなった大事件であった。
しかもこの事件にはなかなか不可解な要素があり、奇妙さの点ではこれまでに紹介してきた数々のエピソードに、さして遜色がない。
しかもこの謎は、今もって未解決のままになっており、引退していた当時の警察官も、私が会った時点ではまださかんに首をひねっていた。

真相は幼稚園児のキヨシ君だけが知っているわけだが、というよりもこの謎を謎のままに捨ておいたのは、おとなびたこの園児自身であったらしい。
現在この園児はもういい歳になり、幼少期の悪戯の真相を抱いたまま北欧に行ってしまったから、事実を知る者はもう日本中にいない。
したがって今稿は、幾多の読者のご要望にいよいよお応えし、というのは軽口だが、本当に彼の幼稚園時代の事件である。

御手洗の仕事の紹介に手を染めてほぼ二十年、私自身まさかこんな原稿を書くことになろうとは夢にも思わなかった。
事件に妙な謎があったという興味もあるが、このところ読者にさかんに尋ねられるところの友人の血筋とか、育った環境、また両親についても若干の情報が本件から得られたので、この点も私に、この稿の公表を決意させた理由である。

この種の読者の要望に対しても、今回はある程度お応えができるであろう。
事件のもともとの発端は、例によって犬坊里美に始まる。
このところの私の事件は、常に里美によってもたらされる。

御手洗が馬車道からいなくなったことはもう日本中に知れ渡ったので、質素な私の部屋のドアを叩く者もいなくなった。
里美がいなければ今頃私はただの世捨て人で、暗い資料整理と散歩に明け暮れていたろう。
隠居老人寸前の者には、世の中の新情報は、龍臥亭事件で知り合ったこの女子大生によってばかりもたらされるのである。

あれは平成九年の十一月末のことだった。横浜は早くも本格的な冬に突入したような寒い日で、私は一日中でもベッドに潜っていたい気分だったのだが、彼女から電話があり、出ると、例によって弾んだ声が聞こえた。
彼女は何にでも興奮するたちがあって、どんな発見でも十年に一度の祝賀行事のように語る。

こういう彼女の明るさを私は楽しんではいたが、昨年英語学校に連れ込まれて以来、多少警戒する癖もついていた。
「先生ー、元気ですかー?」例によって彼女は、遠くから叫ぶように言う。
電話という機械が発明されたばかりの頃、みんなこんなやり方で話したそうだが、もう囁く声でも充分相手に届くのだ。

私としてはいつも元気でいるつもりなのだが、若い彼女からは死にかかっているように見えるらしく、たいていこう訊かれる。
「うん元気」私は力なく言った。
「大ニュースがあるんですよ一、先生に教えちゃおうかなー、どうしようかなー」彼女の声は、いつもに増して弾んでいる。
嬉しくてたまらないというふうだ。

「え、大ニュース……」
途端に私は、悪い予感を抱いた。
小心な私は、あらゆる予想が悪い方、マイナスの方向にしか向かない
特にこのところ、すっかり事なかれ発想に陥ってしまって、何も聞きたくない、何も変わった出来事は欲しくないという気分だった。

里美とのつき合いが厚くなり、生活のかなりの部分を占めるようになってきたので、今里美に去られることを考えると、欝病になりそうだった。
今のままの状態が、一ヵ月でも一週間でも長く続いて欲しいと、私の望みはただそれだけなのだ。
最も私の恐れるものは、里美に恋人ができたというニュースである。

「大ニュース」という言葉と、嬉しくてたまらないような彼女の弾んだ声を聞き、真っ先に連想したものはそれだった。
私にとってそれは世界が終わるニュースであり、暗い資料整理と、陰気な老人生活の開始ベルである。
だから私は言った。

 

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