夜光虫
 
  かつては神宮球場のヒーロー、プロ野球の世界ではノーヒットノーランを達成。加倉昭彦は栄光に彩られた野球人生を全うするはずだった。しかし肩の故障が彼を襲う。引退、事業の失敗、離婚、残った莫大な借金。加倉は再起を賭け台湾プロ野球に身を投じる。それでも将来の不安が消えることはない。苛立つ加倉は台湾マフィアの誘いに乗り、放水−ハ百長に手を染めた。交錯する絆と裏切り。揺れ動く愛と憎。破滅への道しか進むことのできない閉塞状況のなかで解き放たれていく狂気……。人間の根源的欲望を描き切ったアジアン・ノワールの最高峰!  
著者
馳星周
出版社
角川文庫 / 角川書店
定価
本体価格 857円+税
第一刷発行
2001/10/25
ご注文
ISBN4−04−344203−3

一八勝三二敗三セーブ。
防御率四・五二。
一九九一年にノーヒットノーラン達成。

オールスター出場。
おれが日本野球界に残した数字だ。
どうってことはない。

勝敗や防御率の数字はもう少し変化するはずだった─立花から呼び出されなければ。
「来シーズンからおまえに用はない。どうする。監督に頭を下げてトレード先を探してもらうか?」
頭を下げた。

おれを欲しいというチームはなかった。
ユニフォームを脱いだ。
グラヴをごみ箱に放り投げた。
同期の連中が酒の席を用意してくれた。

億の年俸を稼いでいるやつに土下座した。
借金でつくった会社。
野球しかしたことのない社長。

うまくいくはずがなかった。
二年で潰した。
借金だけが残った。

倒産が決まったその日、女房が家を出ていった。
元々名前だけの夫婦だったが、心は充分に傷ついた。
やけくその日々一酒とギャンブル。

そのうち年が明け、野球雑誌のライターが台湾人を連れてやってきた。
「この人のチームがいいピッチャーを探してるんだ。あんた、テストを受けてみる気はないか?」
台湾忘れていた記憶がよみがえった。

ぼやけていた顔が形を持ちはじめた。
酒とギャンブルをやめ、身体をつくった。
二ヶ月後、台北にいた。

かつての球威は戻らなかった。
それでも、台湾人の監督はおれのスライダーとコントロールにうなずいた。
麗しの島─―灼熱の国。

土挨と檳榔の匂い。
薄汚れた犬っころと香菜の香り。
人はいいがでたらめな台湾人。

整備もろくにされていない球場。
バスでの移動。
安い給料。

鬱屈がたまった。
気晴らしといえば、台北の林森北路。
日本人向けのクラブ−真弓だとか、洋子という名の気のいい小姐たち。

酒とセックス。
やがて、黒道たちが姿をあらわした。
日本からは毎月のように借金返済の催促の電話がかかってくる。

このまま台湾で野球を続けても将来は暗い。
おれは黒道と握手した。
金のため。鬱屈を金で紛らわすため。

麗しの島─やって来る前に思い描いていた夢は砕けた。
おれの脳裏に宿っていた懐かしい顔もどこかに消えてしまった。
毎晩酒を飲み、檳榔を噛む。

真っ赤な唾を道端に吐き捨てる。
台湾一麗しの島。腐る寸前まで熟した果実。甘い芳香を放っている。


ドミニカ人の打った球がライト前に転がった。
スタンドから歓声がわきおこった。
中継が乱れ、ランナーは三塁へ。

八回裏で、スコアは二対一。
一アウト、ランナー一塁三塁。
「加倉さん、出番よ」ベンチから王東谷が駆け寄ってきた。

いわれるまでもなかった。
マウンドヘ向かう監督の林が肩越しにおれを見た。
「加倉さん、鬼畜米英をやっつけるんだよ」

淀みのない日本語─アクセントが少しおかしい。
王東谷は不安そうな表情で打席の方を見ていた。
鬼畜米英─アメリカのマイナーリーグからやってきた黒人が凄い勢いでバットを振りまわしていた。

おれは王東谷の肩を叩いた。
「任せろよ、爺さん。アメ公なんて目じゃない。今夜は林森北路で祝杯だ」
ドミニカ人に打たれた陳がうなだれてマウンドを降りた。

林の手招きに応じておれはマウンドに向かった。
陳とすれ違う。
陳が凄い目でおれを睨んできた。

なにかを叫んだ。
おれにはわからない台湾語。
意味はわかった。

だが、わからない振りをした。
陳はおれの足元に唾を吐いた.鼻の奥が熱くなる。
深く息を吸った。

こんなことでいちいち頭に来ているわけにはいかない。
話の通じない台湾人も中にはいる。

 

 

 

このページの画像、本文からの引用は出版社、または、著者のご了解を得ています。

Copyright (C) 2001 books ruhe. All rights reserved. 無断でコピー、転写、リンク等、一切をお断りします。