飛ぶ男、噛む女
 
  私小説か? 超常小説か? 女 あやかしのエロティズム。めっぽう危険な、男と女の物語。南の風が吹いて 眼下の森の樹々が激しくうち騒ぐとき、うまく飛び降りて風に乗れば、あなたも鳥のように空を飛べるのよ・・・・。 女が、私のうちろで、そうささやく。  
著者
椎名誠
出版社
新潮社
定価
本体価格 1500円+税
第一刷発行
2001/10/20
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ISBN4−10−345614−0

二年ほど私の家に居候をしていたチベット人のツアンが帰国した。
ツアンは二十九歳。
純朴ないい青年であった。
帰国する前日の晩、ツアンは私の部屋にやってきて別れの挨拶をした。

彼は山岳民族特有の厳しい顔つきをしていたが、話しかたやその心根が優しかった。
いつの間にか日本語をすっかり自然に話せるようになっている。
彼ははじめ、静かに話をしていたが次第に涙声になり、やがて大粒の涙を流しながら長身の膝を折り、床に座った。

「こんなに沢山お世話になって、このご恩は一生わすれません。私は自分の国に帰り、日本での勉強を沢山生かして新しい仕事をします。本当にどうも有り難うございました」ツアンは床に頭をすりつけ、さらに沢山の涙を流しながらそう言った。
こんなふうに本当に心を込めて別れの挨拶をされたことなど今までなかったので、私は少々圧倒されながらひざまずくッアンの手をとった。

中国政府の辺境自治区への極端な粛清政策はまだ続いている。
帰国するッアンには未知の試 練が待っている筈だった。
ツアンは涙を片手で拭い、私が健康であるように、ずっと元気で楽しくしていて下さるように、と静かに言った。

そしていつかきっと、私の国に来てください─―─と。
ツアンが日本にやってきた時、彼はまだ日本語はなにも話せず、英語だけでコミュニケーションをはかるしかなかった。
初めて見る日本はツアンにとってなにもかも刺激的で、驚異と驚嘆にみちた異界そのもののようであった。

学校へ行くのにも一人で電車に乗ることができなかった。
幼稚園の幼児のナラシ保育のように、最初の数日は私の妻が一緒に学校まで行き、帰りも一緒に帰ってきた。
なにしろ電車のまったくない国からやってきたのだ。

キップの買いかたから自動改札の通りかたまでツアンにとって日本での日常は最初から何だか訳のわからない騒々しくてけたたましい未知の世界であったにちがいない。
ツアンを日本に連れてきたのは私の妻である。
彼女は子供のじぶんからチベットに魅せられていて、三十代の頃からチベットヘの旅を続けていた。

そして何年かの準備の後、四年前に馬での旅をした。それはチャンタン高原の五、六千メートル級の山岳地帯を五か月かけて二巡りする、という私にも想像のつかない長い距離と時間の旅であった。
地名には高原と名がついているが、五か月の行程のすべてが日本より高い山の上のルートなのだった。その旅の折りに雇った三人のシェルパのうちの二人がツアンであった。
私の家は娘と息子がもう長いこと外国に住んでいるので、ツアンは突然やってきた新しい息子のようであった。
実際、彼は私の家にすっかり馴染み、日常的な家の仕事など自分からみつけてよくやってくれていた。

そしてツアンがいると私も安心して家をあけ、長旅に出ることができたのでなにかと有り難い存在だった。
私が家で食事をするとき、ツアンはいつのまにか私の好みの酒肴を覚えてしまい、ピンと呼ぶチベットの食材を使った麺料理や、モヤシを熱く辛く妙めたものなどを手早く作ってくれた。
ツアンが国に帰る最後の夕食の時にも彼はモヤシの熱くて辛い妙め物を作ってくれた。その日私は韓国旅行から帰ってきたばかりだったので辛い料理を連続して求めていた。
そして韓国料理とは微妙に辛さと風合いの違うその味がとても懐かしく嬉しかった。

「だけどもう明日からツアンのこの料理が食べられなくなるね」私がそう言うと、ツアンは黙りこんで下を向いた。ツアンと一緒に翌日から私の妻もチベットに出かけるので、また暫く私は二人暮らしになる。夕食の時に私はツアンに一眼レフのカメラと、私の愛用していたかなり頑丈なバックナイフをプレゼントした。
長い間のモヤシあつあつ妙めのお礼だよ、と私は冗談めかして言った。ツアンはその時も黙ってうつむいていた。

妙だな、と思ったのだが、そんなことの後に彼は私のところへ涙の別れの挨拶にやってきたのだ。
目がさめると九時になっていた。私の韓国の旅は十日程度のものであったが、留守の間の郵便物などが結構たまっていて、目を通しているうちに午前二時になってしまった。
慌ててベッドのなかにもぐりこんだのだが、体の芯のあたりが疲れている筈なのに妙に寝つかれず、そのことで暫くのあいだ悶々とした。

やっと寝入った時間は覚えていないが、そのいささか不快な眠りは、翌日からの私のほうの試練を暗示しているようでいよいよ眠りに引き込まれる時が少々恐ろしかった。
結局私は大幅に寝過ごしてしまい、早朝五時に出発した妻とッアンを見送ることはできなかった。
外はよく晴れていた。

私は三階にある自分の部屋の窓を開け、部屋の中に朝の空気を入れた。
通りをへだてた向かい側に、つい数か月前に出来たばかりの建て売り住宅があり、そのベランダで洗濯物を干している若い主婦の姿が見えた。
建て売り住宅は八軒並んでいる。

ほんの数年前までそこは畑で、畑の隣には武蔵野の雑木林のおもかげを残す小さな林があった。
しかしその畑と林を所有する地主が死んで、どうやらあの理不尽に巨額なものとなる相続税に苦慮したらしく、その土地は売却され、たちまち宅地造成された。
私は妻の用意してくれた朝食を摂り、身支度をして早めに家を出た。車の中にほぼ一週間分の着替えが放りこんである。

ほんの十年程前には父母をいれて家族六人が住んでいた家であるが、今は一人で暮らすには寒々しい広さになっていた。
午後に赤坂の外れにあるA町に若いた。
近道ではあったが、慣れるまではひどく厄介な一方通行の頻発する道を走る。

日曜日で何時もよりずっと静まりかえったビル街を通り抜け、私の仕事場のあるマンションに着いた。
奇妙に大仕掛けな順送り式のガレージに車を入れ、地下三階から十四階にある仕事場に行った。
その間、誰とも会わなかった。

私がさっきまでいた郊外の町よりも人の気配がなかった。
東京の真ん中であったけれど、その閑散ぶりは日曜などはよくあることだった。
そこに来るまでの間、私は薬をのむべきかどうかでかなり迷っていた。

精神科の医師から貰った二種類の精神安定剤である。
私の精神不安定は、四年前から続いている。
とくにひどくなったのは昨年の夏からであった。

昨年の夏、妻がチベットに旅立った日に急に発症した。
妻は夏休みの休暇でいったん故郷に帰るツアンと一緒だった。
日本からチベットに行くには、北京から成都をへてラサに至るまで三日もかかる。

私はそれまで何度も妻がその旅に出ていくのを成田まで送っていったが、妻の荷物はいつも只事ではなかった。
途中、中国の各都市で世話になっている人やチベットの知り合いに持っていくお土産をはじめとして、なにかと品不足の国だから医薬品なども頼まれており、それらの品物で荷物は常に五、六十キロはあった。

そして四年前の馬での旅の時はちょっとした探検隊に近い旅のスケールであったから、自分の荷物だけで百キロを超えていた。
その時は私も中国の成都まで彼女を送っていった。小さな体の妻がそのような大荷物を持ってひとりで旅立っていくのを、私はけたたましく騒々しい中国辺境の空港で、呆然と見送った。
昨年のその日も妻とツアンを成田空港まで送ったあと、私はすぐに赤坂の仕事場に行った。
十四階にある部屋の大きなガラス窓のすぐ下に赤坂御所の濃厚な緑のつらなりがあった。

 

 

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