鬼子
 
  ある日、突然、素直な息子が悪魔に変貌した。家庭とは、これほど簡単に崩壊するものか。作家とは、かくも残酷で哀しい職業なのか。編集者とは、こんなにも非常な人種なのか。新堂冬樹。鬼。人でなし。だから面白い。  
著者
新堂冬樹
出版社
幻冬舎
定価
本体価格 1800円+税
第一刷発行
2001/10/31
ご注文
ISBN4−344−00125−7

大きな紙袋を片手に提げた二十代前半の若者が、こそこそと様子を窺いながらエントランスヘと踏み入った。
袴田には、長年の経験で、よれよれのジーンズによれよれのポロシャツ姿の若者が、なにが目的でエントランスに現れたのかがわかった。
そしてその挙動から、目的の作業に慣れていないこともわかった。

せっかく乗ってきたところなのに、執筆を中断しなければならない。
袴田は万年筆を原稿用紙の上へ置き、サングラスをかけた。
腰を上げかけ、思い止まった。

まだだ。
まだ、はやい。
袴田は食べかけのマドレーヌを齧り、缶からグラスに移したレモンティーをストローで吸い上げた。

ひどい味に変わりはないが、缶のまま飲むのは袴田の美的センスが赦さない。
このマドレーヌは、三〇五号室の栗谷という五十を過ぎた主婦が、孫のために焼いたものをお裾分けしてくれたものだ。
昔、パリのモンマルトルのサロン・ド・テで食べた絶品のマドレーヌとは比べようもないが、素人にしてはなかなかの腕前だった。

若者が、紙袋の中に突っ込んだ手を、メイルボックスに差し入れた。
袴田はモニターテレビから眼を離し、テーブル上に散らばったマドレーヌの滓をティッシュで丹念に摘み上げてゴミ箱に捨て、腰を上げた。
ドアを開け、エントランスヘと出た。

「君、貼り紙が、眼に入らんのかね?」
袴田の声に、背中を向けていた若者が弾かれたように振り返った。
寝ぐせで撥ねた髪、銀縁眼鏡の奥の気弱そうな眼一若者の顔が、狼狽と驚愕に歪んだ。

「チラシの投函は厳禁、と、書いてあるだろう?」袴田は、六十世帯分のメイルボックスの上の壁に貼られた、黄色のマジックで縁取られた黄緑のマジックで書かれた貼り紙を指差し、低く威厳のある声で署めた。
この貼り紙は、袴田が書いたものだった。

注意書きは赤いマジックを使うのが一般的だが、袴田は、サラ金の取り立てを彷佛とさせる粗暴で品性に欠ける赤文字を嫌った。
貼り紙ひとつにも、恋愛小説家の自分が書く以上、字面に拘りたかった。
「す、すいません……」若者の震える黒目が、袴田の優越感をくすぐった。

「待ちなさい」脇を擦り抜けようとする若者の、半袖から伸びた生白い腕を掴んだ。
若者の、女のように細い華奢な腕が、袴田を心理的に優位に立たせた。
「いいかね?メイルボックスというのは、重要な書類や光熱費の請求書、それに手紙などを受け入れるためにあるんだ。君らのような業者が次から次へとチラシを放り込むから、私はひどく迷惑をしている」本当だった デートクラブ、出張マッサージ、裏ビデオなどのチラシが、日に三、四枚、ひどいときになると十枚以上も投げ込まれている。

口うるさい居住者に文句を言われるのは、管理人である自分なのだ。
だが、袴田がチラシ撒きの業者に目くじらを立てるのは、居住者の文旬ばかりが理由ではない。
自宅では針の莚状態の袴田も、ここ世田谷区太子堂に建つ三軒茶屋五番館では重要な立場にある。

午前九時から午後五時までの勤務時間内は、部外者が自分の許可なしに勝手なまねをすることは赦されない。
「もう、撒きませんからー」
「そうやって人の話を聞かないのは、君達若い者の悪い癖だ。どんなチラシを配ってるんだ?みせてみなさい」袴田は、若者が気弱で軟弱なのをいいことに、調子づいていた。

若者が、紙袋から一枚のチラシを掴み、怖々と差し出した。
煙草のパッケージサイズほどのチラシを、袴田は凝視した。
はちきれんばかりの乳房を両腕で抱え込み、前傾姿勢で挑発的に微笑む若い女の写真。

90分、15000円、チェンジOK、ノーサック応相談、ピチピチギャル多数在籍、などの低俗な活字が並ぶ淫らな内容とショーガールという店名から袴田は、若者の投函しているチラシはデートクラブのものだろうと見当をつけた。
袴田は、チラシから眼を逸らし、大きなため息を吐いた。

なんという卑狼な写真、なんという低俗な言葉─―みるに堪えなかった。
男女の甘くせつない運命を清廉な筆致で叙情する自分は、日需生活でも、醜悪で狸雑な物事を極力、眼に、耳に入れないように、そして自らも粗暴な振る舞いや汚い言葉遣いをしないように努めていた。

 

 

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