暗号攻防史
 
  暗号の歴史は、秘密を守ろうとする人聞と暴こうとする人間との、暗号作成者と解読者との、呆てしなき攻防戦といえる。本書は古代ギリシャの昔からインターネット全盛の今日まで、その攻防の歴史を集大成したもの。なかでも世界史に大きな影響を与えた暗号と、それに関わった人々のドラマを描いたくだりは詳細で、かつ面白い。
 
著者
ルドルフ・キャペンハーン
出版社
文春文庫/文藝春秋
定価
本体価格 762円+税
第一刷発行
2001/01/10
ご注文
ISBN4−16−765102−5

はじめに

子どものころ、ミステリーは人並みに好きだったが、暗号に特に興味をもっていたというわけではなかった。
シャーロック・ホームズ・シリーズの『踊る人形』はもちろん読んだが、そこに出てきた暗号に特に夢中になった記憶もない。

数学を専攻した大学時代にも、自分が学んでいる学科が暗号技術といかに密接に結びついているか意識したことはなかった。
そんな筆者が暗号の研究を始めたのは七〇年代に入ってからである。

画期的な暗号作成法が発表されたという話を友人から聞いたのがそのきっかけだったが、始めてみると思いもかけず暗号の魅力の虜になってしまった。
暗号の作成と解読に生涯を捧げた人々、暗号のおかげで危地を逃れた人々、暗号を解読されたことが命取りになった人々など、暗号をめぐるさまざまなエピソードにも魅了された。

いつからか、この魅力を人に伝えたいという欲求を感じるようになった。
こうしてできあがったのが本書である。暗号の研究を進めるにつれて、第二次大戦中の暗号戦にますます興味を覚えるようになった。

本書では、ドイツの暗号機エニグマとその暗号の解読に成功した人々の人間ドラマとに二章を割いた。
しかし、歴史、ましてや戦史を描くことが本書の主眼ではない。

筆者が興味をそそられるのは暗号そのものに対してである。
本書が歴史的事件を描くのは単に、人間の運命と科学との密接な結びつきを暗号の歴史が明らかにしてみせているからにすぎない。

多方面から寄せていただいたご助力がなかったら、本書を完成させることはできなかった。
多くの友人たちはもちろんのこと、本書の執筆を通じて初めて知り合った人たちからも多くを教えていただいた。

感謝申し上げる。フランツーレオ・べーレッツ、ヨアヒム.ハインケ、ライマー・リュスト、ハルトムート・ペッツォルト、ヴォルフガング・スコンド、ヘルムート.シュタインヴェーデルの各氏には特にお世話になった。

ハンブルク地方裁判所首席判事にも感謝申し上げる。ロルフ・シュピンドラー氏には本書に掲載する写真を撮影していただいた。
友人の数学者ハンスールートヴィヒ・デフリースには特に感謝している。

本書の執筆を勧めてくれただけでなく、筆者の以前の著作と同じように本書も最初から最後まで精読して的確な批判を下してくれた。
本書に掲載した図はすべてコレル・ドロー・プログラムを使って作図した。
一部、プログラムのクリップアート・ライブラリから借用したものもある。

ゲッチンゲンにて

一九九七年三月十七日

ルドルフ・キッペンハーン

 

 

1章 歴史を彩った暗号

私は、あらゆる形態の暗号についてかなり詳しく知っている。
暗号についてのつまらない論文を書いて、一六〇種類の暗号システムを分析したことがある。シャーロック・ホームズ(『踊る人形』より)

「大橋サン、ワタシ、もし死刑になったら、化けて出ますからね」と囚人は特高警部補に向かって言った。
尋問で繰り返し顔を合わせるうちに、囚人と警部補のあいだにはくだけた雰囲気が生まれていた。

囚人はドイツ人ジャーナリスト、リヒャルト・ゾルゲ。
一九四一年十月十八日の土曜日、東京のゾルゲ宅に特高警察が踏み込み、パジャマにスリッパ姿のゾルゲを連行したときにも、大橋警部補は現場に立ち会っていた。
逮捕以来、ゾルゲには人生を振り返る時間が充分にあった。

最初の数週間は、挫折というこの初めての経験に打ちのめされていた。
しかし、その後は次第に、少なくとも任務は首尾よくやりおおせたのだからという気持ちが強くなった。
そう思うと心が慰められ、将来に対する不安も少しは軽くなった。

ゾルゲは、ナチス・ドイツのソ連侵攻後にモスクワの赤軍参謀本部第四部へ向けて、日本が東方からソ連に攻撃を仕掛けることはないと情報を送っていた。
彼からの情報があったからこそ、ジューコフ元帥はシベリアから兵員および戦車、戦闘機を引き上げてモスクワ防衛に投入することができたのである。
ゾルゲは思った。

この私、リヒャルト・ゾルゲこそ、世界史の流れを決定したと言えるのではないか。
取調官が質問する内容から、彼には察しがついていた。
私が電信係に上海やウラジオストクの通信局へ送信させた、おびただしい数の暗号電文の解読に、特高警察はまだ成功していない。

 

 

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