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幸福のかたち
芝木卓之から結婚を申し込まれた時、正直なところ、早映は心からホッとした。
卓之は早映の同僚で二十九歳。
髪を無造作に分け、黒の細いフレームの眼鏡をかけた彼は、特にハンサムというわけでも話し上手というわけでもなかったが、穏やかな雰囲気を備えていて、早映を安らいだ気持ちにさせてくれた。
もし自分が二十歳だったら、彼のことには気がつかなかったかもしれない。
けれど、今の早映は彼の良さが見抜けるぐらいは大人になっていた。現在、卓之は東京郊外の鷺沼という街に両親と住んでいる。
結婚すれば会社が借り上げたマンションに住むことができる。超一流というわけではないが、安定した会社だ。
人柄的にも条件としても申し分なかった。
卓之とは三ヵ月前、会社が主催する懇親パーティで知り合った。
半年に一度開かれるこのパ!ティは、いわば集団見合いの色合いを持っていて、会社側は、男性社員を仕事に集中させるため、女性社員は長く社に居座らせないために、社内結婚に積極的だった。
実際、今までも何組ものカップルがこのパーティで知り合い、結婚へと進展していった。
バーティを仕切っている人事課の友人から、今回は女性の参加者が少ないので頭数を揃えるために出てくれないか、と頼まれた。さすがに躊路した。
参加者は自分より若い女の子たちばかりだ。早映は二十七歳。かつて何度か参加したことはあるが、この年ともなれば、後輩OLたちに結婚を焦っている女と映るのは間違いない。
いったんは断ったが、お願い、と手を合わされると断れなかった。結局、しぶしぶという形で承諾することになったが、正直なところ、胸の隅では違うことを考えていた。
入社して五年。
OLとしてそろそろベテランと呼ばれる域に入ろうとしている。オフィスの中では、いつの間にか上司や後輩に頼られている部分も多くなっていた。
仕事は嫌いじゃない。
楽しくないわけでもない。けれども、最近はそれが重荷に感じられる時がある。特に、ここ一年ばかり、何人かの友人や同僚を結婚で見送るたび、自分が何か違うことをしているような、居場所を間違えているような、頼りなげな気持ちになった。今までに、何度か恋愛を経験した。
それぞれに真剣な気持ちで付き合ってきたつもりだったが、結婚まで至る相手とめぐり合うことはできなかった。
相手にそれを決断させるための何かが自分には欠けているのかもしれない、そんな思いが胸の底にあった。
もしかしたら、一生そんな相手とめぐり会えないのではないかという不安もだ。
最近、結婚のことを早映は強く意識するようになった。
今時、何を時代遅れなことを、と笑われるかもしれないが、やはりそれを望んでいるのだった。
結婚して家庭を持ち夫のために食事を作る。子供を産み、自分の手で育ててゆく。
そんな生き方が結局自分には合っているのだと、つくづく感じてしまう。
大学入学をきっかけに上京して、そろそろ十年になろうとしていた。
一人暮らしも長くなり、都会で生きる楽しさも術もそれなりに身につけた。
けれども、そうなればなるほど、自分の立っている場所が不安定なものに感じられてならなかった。
たとえば小碕麗なワンルームのマンションをどれだけ好きなインテリアでまとめても、たとえば会社の自分専用のデスクやキャビネットを使い勝手よく整えても、結局は自分のものではなく、借り物にしか過ぎない。
それを思うたび、虚しいような気分になった。
早映は高価なコーヒーカップセットを日常の中で使うことができない。
コーヒーを飲む時は、つい、二年も前に買った安くて丈夫なマグカップを使ってしまう。つい、もったいないと思ってしまう。
こんな高価なコーヒーカップは、今、使うものではなく、いつか必要な時が来てこそテーブルに並べられるものだと感じる。
同じように、自分のためだけに手のこんだ料理を作ったり、誰も見ていないのに部屋.着にお金をかけたりするのも、無駄なことに思えてしまう。
何のためにこんなことをしているのだろう、これをして何がどう変わるというのだろう、と考える。確かに、今の生活は自由と呼ぶことができるかもしれない。
けれど、見方を変えれば、底の見えない孤独と隣り合わせに生きているだけのようにも思えた。
普段は落ち着いていても、誰かの幸福を垣間見たり、予定のない週末にひとりで食亭をしていると、ふとした拍子に、まるで発作のようにそれが顔を出し、胸をきりきりと締め上げる。早映は結婚がしたかった。
そうなのだ、認めてしまえば簡単なことだった。笑われようがあきれられようが、結婚がしたかった。
自立も、やりがいのある仕事も、自分には似合わない。
それを信じた時もあったけれど、それらは最終的に自分を満たしてはくれなかった。私は所詮、平凡な女なのだ。
仕事に生きるとか、自立して生きるなど向いていない女なのだ。
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