夜離れ
 
  私の幸せのためならなんだってやる─―結婚を控えた摩美と敦行は、突然失語症になった摩美の親友朋子を気遣い、熱心に世話を焼いた。そのかいあってか、朋子は「劇的」に回復する。だが、挙式当日、祝辞に立った朋子の口から出たのは……(「祝辞」)。「私だけ」の幸せに口が眩んだ女たちの、嫉妬、軽蔑、焦燥、憎悪が渦巻く心の内を残酷なまでに鮮やかにえぐり出す、傑作心理サスペンス。
 
著者
乃南アサ
出版社
幻冬舎文庫
定価
本体価格 495円+税
第一刷発行
2001/8/25
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ISBN4−344−40149−2

4℃の恋

1

ストレッチャーも乗るようになっているエレベーターは奥行きが深くて、一階ずつ上階に駆け登る度に、大げさなくらいにごとん、ごとんと音を立てて揺れた。
煙々と輝く蛍光灯に照ら斗ごれた肌色の箱に一人で乗りながら、晶世は心持ち賛沢な気分を味わっていた。
毎日乗り慣れている、ただの無機的な箱ではあったけれど、それでもこの箱が、見知らぬ病人や陰轡な表情の家族などで一杯になってしまっている時の気詰まりな雰囲気を思えば、一人で悠々としていられるという、それだけで、たとえささやかであっても賛沢なことだった。

第一、誰の目からも遮断されている空間、一人を味わえる場所というもの自体が、この職場には、そう多くはないのだ。
エレベーターが移動していることを示す、扉の上のランプを見上げながら、いつの間にか、無意識のうちに鼻歌が出てしまっている。
気をつけてはいるのだが、ついつい何かの歌を口ずさみそうになって、実はこの二、三日、晶肚は仕事中にもずい分苦労をしていた。

特に口うるさい職場というわけではなかったが、それでも普段おとなしい晶世が、突然鼻歌など歌いながら仕事をしていたら、誰の目に留まるか分かったものではない。
けれど今、この誰もいない箱の中ならば、たとえ大声で思いきり歌ったとしたって、誰に聞かれる心配もなかった。
─あと三日。あと三日。

デパートやマンションなどのエレベーターと比べると、格段に動きの鈍いエレベーターは、それでも途中の階で誰かに止められることもなく、着実にのろのろと昇っていく。
最後にごとん、と衝撃があって、ようやく目指す六階に着いた。
一呼吸置いて扉が開くまでの少しの間に、晶世は、にやけてしまっているはずの顔を意識的に引き締め、二、三回、瞬きをした後で普段の表情に戻った。

エレベーター前の、少し広くなっているロビーに並んだ緑色の公衆電話は、すべて塞がっていた。
一人は点滴の管を腕に刺したまま、もう一人はガウンをはだけて、ぼさぼさの髪を逆立てた姿、もう一人はパジャマだけの姿で、痩せて背骨が浮いてしまっている背中を丸めながら、それぞれが、唯一自分と外界とをつなげている一本の線にしがみつくようにしている。

彼らが男であろうと女であろうと、または老人だろうと若者だろうと、晶世には何の興味もなかった。
いま目に映っているのは、とにかく電話にしがみついている病人というだけのことだ。
「お疲れさまです」長い廊下の中央付近にあるナース・センターに顔を出し、誰にともなく声をかけると、ひょいと顔を上げたのは看護婦の西山さんだった。

「ああ、後藤さん。もう、仕事は終わったの?」西山さんは、晶世よりもかなり歳上の、ベテラン看護婦だった。
「あの、どんな具合ですか」晶世は、ナース・センターに顔を突き出しながら、視線だけを、長く続いている廊下の方へ泳がせた。
晶世の言葉に、口元をほころばせていた西山さんの表情がすっと曇る。

「ああ、そうねえーあのね」彼女は、ゆっくりと立ち上がると晶世に近付いてきて、晶世の背を軽く押しながら廊下に出てきた。
「あんまり、よくないわねえ」
「1もう、駄目っていう感じ?」

西山さんが声をひそめたので、晶世もそれにあわせて小さな声になる。
「内田先生はね、あと五日も保てば、いいくらいじゃないかって」西山さんはいかにも気の毒そうに晶世の顔を見る。

 

 

 

・・・・続きは書店で・・・・

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