オトナも子供も大嫌い
 
  ちょっとニヒルな少女の物語 「大きくなったら クレージーキャッツの無責任男みたいになりたいな」 小学校がちっとも面白くないのである。先生が音楽の時間にオルガンを弾いて、みんなで歌を歌うのだが、一年生になったら友達100人できるかなという歌で、アケミはその歌が大嫌いだった。  
著者
群ようこ
出版社
筑摩書房
定価
本体価格 1300円+税
第一刷発行
2001/09/10
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ISBN4−480−80362−9

父の描いた紙ピアノ

「ちょっと、アケミちゃん、大丈夫?返事をしなさい」母がトイレの木の戸をどんどん叩くのを、しゃがみながら聞いていたアケミは、目の前にぶら下がっている黄色いトイレボールを指で突っつきながら、「だいじょーぶー」とのんびり返事をした。
「ああ、びっくりさせないでよ。落ちてるんじゃないかと思ったじゃないの。終わったらさっさと出てきなさいよ」母はちょっと怒った声でいった。

近所の子がトイレに落ちてからというもの、アケミがトイレに入ると、「済んだの。済んだんだったら、すぐに外に出てきなさい」といちいちいいにくるようになったのだ。
「うるさいよ」アケミは小さくつぶやいてパンツを上げ、トイレの戸を開けた。
トイレに入ると、毎日使っている場所なのに、新しい発見がいつもあるような気がした。

上のほうの引き戸を開けると、隣の家の柿の木が見える。
下の小さな引き戸を開けて顔を突っ込むようにすると、沈丁花が見える。
ちりがみが置いてある木のカゴの中にクモがいたり、掃除のあとの気持ちがいいような悪いような、不思議な片脳油の匂いをかいだりして、この狭い部屋でも遊べることは山ほどあった。

時にはちり紙を一枚、一枚、目標を決めて便槽に落とし、それが狙いどおりに落ちていくかを見届けたりしていた。
しかしそれはすぐに母にばれ、「もったいないことをするんじゃない」と叱られた。毎日、毎日、叱られ続けたが、アケミは絶対に泣かない子だった。
叩かれても泣かなかった。泣くより前に無視することを覚えて、鬼のような顔をして母が怒っても、いちおうは神妙な顔をしているが、(また、はじまった)と右の耳から左の耳へ通過させていた。

アケミの下には、タロウという弟がいる。昭和三十三年に生まれた一歳になったばかりのまだ赤ん坊だ。
それまでは都心に住んでいたのだが、弟が生まれたことで間借りしていた部屋が手狭になり、東京郊外の長屋に引っ越してきた。
隣の家と棟続きになっていて、台所、便所、六畳と四畳半の和室があり、濡れ縁から庭に出られるようになっていた。

隣の家には無愛想な年配の母と息子が住んでいて、アケミが無邪気に遊びに行けるような雰囲気ではなかった。
裏には二軒の平屋が建っていて、右手の家にはアケミより三つ上とひとつ上の姉妹、左手奥の家にはアケミよりひとつ下の男の子がいた。
アケミたちが住んでいる長屋の前には野原があり、そこに黒いプリンスとべ一ジュのスバルが止まっていた。

プリンスは姉妹の家の車で、スバルのほうは奥の家の車だった。
アケミは前に住んでいた所で幼稚園に通っていたが、退園処分を受けた。
紺色のスモックに短いプリーツスカート、靴下どめをしてもずるずると落ちてくる肌色タイツに毛糸のパンツ。

肩からは赤いビニール鞄を斜め掛けにし、手には赤い格子柄の上履き入れを持っていた。
アケミはそういうお道具を持って幼稚園に行くのは好きだったが、そこにいる人々は嫌いだった。
退園の理由は他の子となじめずに暴力をふるうからだった。

暴力をふるうといっても、相手は全部男の子で、遊びのときに我がままをいって泣きわめいたり、手足をぶんまわして自分の意地を通そうとするのを見ていて、アケミが、「うるさいっ」と頭をべちっと叩いたり、突き飛ばしたりしたのが問題になった。その男の子は地元の権力者の孫で、園長は何の抵抗もできなかった。
アケミを退園させなければ、この幼稚園はどうなるかわからないという問題になり、彼女はやめることになったのである。

「あんな幼稚園なんか、行くことはない」父はそういって怒った。
母も、「やられる男の子が情けないんだ」と怒った。家では全く叱られなかったが、世の中に叱られてアケミは、ひと月もたたないうちに幼稚園中退になったのである。
普通の子はほとんど幼稚園に行くので、引っ越してもアケミは友だちができなかった。

それでも寂しいとか、つまらないとかいうことはなく、アケミは一人で勝手に遊んでいたが、両親はそれを見ながら悩んだ。
「この子はたくさんの子供と接しないと、変な子供になってしまうのではないか」前に住んでいた場所でも、遊んでいる子供たちの中には入っていかず、「おじちゃん、おばちゃん」と商店街の人々に声をかけて、いつまでも話し込んでいたりしていた。

あるとき母が買い物をするために商店街に行くと、人だかりができていた。
何かと思って近づいていくと、アケミが団子屋の前で即興の歌と踊りで、喝釆を受けている。母が目を丸くしていると、団子屋のおかみさんが走り寄ってきて、「奥さん、ごめんなさいね。うちのだんながアケミちゃんに、『歌って踊ってみせてくれたら、どら焼きの皮をあげるよ』っていっちゃったもんだから」とすまなそうな顔をした。
アケミはソフトクリームのコーンと、どら焼きの皮が大好物なのである。

拍手喝采を受けて約束通りどら焼きの皮をもらった彼女は、母を見つけて駆け寄り、「ママ、もらった」とうれしそうな顔をした。
「よかったわね。家に帰ってから食べるのよ」アケミはこっくりとうなずいて、どら焼きの皮を渡し、母は手にした買い物籠の中から、ちり紙を取り出してどら焼きを包んだ。それから一緒に買い物をして家に戻った。

両親は、近所の人から、「アケミちゃんは変わっている」といわれ続けていた。おしゃまといういい方もあったが、子供の輪の中に入っていかないアケミは、若い夫婦にとっては心配の種だった。そこで幼稚園に入園させれば、子供たちのなかでいろいろと学ぶことができるかもと思ったのだが、あっという間に退園処分になった。
次に頭に浮かんだ子供が多い場所は、児童劇団だった。

「変わっているといわれたし、あの子にはそういう世界のほうが合っているのかもしれない」両親はそう相談して劇団に登録し、レッスンを受けることになった。
劇団のことを両親から聞いて、「行く?」と聞かれたアケミは、「うん、行く」と元気よく答えた。
どんなところか全くわからなかったが、家にいてずっとテレビを見ていたり、トイレや近所まわりだけで遊ぶよりは、電車にも乗るし、楽しいのではないかという気がしたからだった。
劇団のレッスンがある日、母は姿見の引き出しの中から、一本しかないキスミー口紅を取り出し、それを丁寧に塗った。

アケミよりも母のほうが楽しそうだった。
「タロウがおとなしくしているから本当に楽なの」と家で仕事をしている父にいって、タロウを抱っこし、私の手を引いて省線に乗った。アケミはただ電車に乗れる、お出かけ気分になることがうれしかった。
ところが劇団はすぐにアケミをうんざりさせた。

そこには子供たちが何十人もいて、歌、リズム、踊り、演技のレッスンがあるのだが、リズムのレッスン以外、面白い物が何もない。
演技の先生が、「あなたはくまさんですよ。でも鉄砲で脚を撃たれてしまいました。痛くて痛くて脚をひきずって歩き、木の根元のところまで一生懸命歩いていきましたが、とうとう倒れてしまいました。さあやってみましょう」

 

 

 

・・・・続きは書店で・・・・

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