プロローグ
一
明治四十四年初春、亜細亜大陸北部で発生した大寒波が、波頭渦巻く日本海を越えて日本北部を直撃した。
そのため東北地方はこれまでにない大豪雪に見まわれ、関東一帯は肌を切り裂く寒風が吹き抜け、武蔵野台地は時ならぬ大嵐に見まわれた。
天空を覆う不気味な黒雲が広がった時、東北一帯は真昼にもかかわらず深夜の暗闇に包まれた。
一方、関東一帯では北の三国山脈と越後山脈を越え、身も凍る空っ風が吹きこんだのである。
武蔵野台地を覆う無数の雑木林は時ならぬ大嵐に翻弄されて激しくのたうった。
遠目で見る森林の姿は、荒れ狂う土用波のうねりのようである。
新田村にとってその日は旧暦正月を祝うため、村人総出で祭儀の準備をしているはずだった。
ところが大陸からの思わぬ大嵐は村人たちを家に閉じ込め、村で古くから長年行われてきた因習を止めさせようとしていた。
長年、新田村の村長をしてきた庄右衛門の家では、打ちつけた板の隙間から身も凍る隙間風が吹き込み、大きな藁葺き天井の付近では、今にも家が倒れそうな家鳴りがしていた。
その中を村の主だった男衆が集まり、庄右衛門と一緒に囲炉裏を囲んで、じっと嵐が通り過ぎるのを待っていた。
黙りこくる男たちの前で、囲炉裏の火が時々思い出したようにパチパチと音を立てながら細かな火の粉を飛ばし、鉄瓶の蓋がチンチンと鳴った。
日本中どこの田舎や寒村も同じだったが、庄右衛門の囲炉裏の火も先祖代々絶やしたことが無い。
女房の貞の前は、五年前に亡くなった庄右衛門の母がずっと囲炉裏番をしてきた。
それは女の一生の仕事でもあったし、代々受け継ぐ祖先信仰と同じで、火を守ること自体が女たちの義務であり誇りでもあったのだ。
「皆の衆、この分なら明日も嵐がおさまりそうもねえ」庄右衛門が一同を見回しながら諦めたような顔で言った。
もはや戌の宵五つ(午後八時から九時頃)である。皆の顔色が優れないのは、なにも風で揺れるランプの放つ炎のせいだけではなさそうだ。
「庄右衛門、明日もし祭をしなかったら、この村はどうなるか分かったもんじゃねえぞ」.人が言うと一同も互いの顔を見ながら頷いた。外では風がさらに激しさを増し、庭に置かれた桶がカラカラと乾いた音を立てながら転がっていく。
「確かに旧正月に行う因習だけは、今まで村は欠かしたことがねえ」
「そうだ、これは先祖代々伝わった決め事だから、何があっても止めるわけにはいかねえ」
「これを欠かすと、恐ろしい崇りがあると聞いたぞ」一同は口々に言い始めた。
その時、村一番の古老の菊三が煙管煙草をくゆらせながら一同の話を聞いていた。
寄る年波に勝てず、菊三の歯は上下ともほとんどが抜け落ち、上顎に下駄のように歯が二本残っているだけだ。
その菊三が笑うと、ちょうど村の明神様に掛かっている笑い尉の面そっくりになる。
その菊三がゆっくりと話し始めた。
「わしらが先代から言われたことは、もっと前の先祖から伝えられた通り、御魂代の祭儀を欠かしてはならぬということじゃ。それをもし怠れば、村は忽ち大凶事に見まわれると伝えられておる」
「爺さん、一体どれぐらい昔からこの因習が行われてきたんだ?」彦一である。
彦}は村一番の力自慢だが、見かけによらず気がやさしく、年老いた母親の面倒を甲斐甲斐しく見る孝行息子だった。
起きているのか眠っているのか分からない細い目から、彦一のやさしい瞳が遠慮がちに外を覗いている。
「詳しいことはわしにも分からねえが、大権現が江戸に幕府を開いた頃にゃ、御魂代の祭儀が始まったと聞いたことがある」一同の耳元を隙間風が甲高い音を立てながら吹きぬけた。
「爺様、それは誰から聞いたんだ?」男衆の一人が聞いた。
「わしがまだ童の頃じゃったか、大叔父から直接聞いたような気がする」
「それはまた古い話だな」留吉が火箸で囲炉裏の灰を掻きまわしながら言った。
留吉には娘が二人いるが、なかなか男子に恵まれず、女房が孕むと裏手にある明神様に祈願に出向く。
時にはお百度まで踏むため、留吉が明神様の境内にいたら女房の腹が膨らんだと、すぐ村中に知れ渡った。
「御魂代は毎年、村衆持ち回りで床の間に祭るが、その都度、戸主が御魂代に新たな和紙を貼っていく。
じゃから御魂代は毎年和紙の厚さだけ大きくなっていく。それから考えても御魂代が新田村に置かれて三百年以上はたつことになる」菊三の歯の隙間からもれる言葉を聞いていた留吉は、大きな溜息を一つついた。
留吉は二人娘たちの前に生まれた別の二人の娘を人買いに売っていた。
帝都に近いとはいえ武蔵野一帯は昔から水はけが悪く、治水工事も難航した地域だった。
地盤は固いが、その分、人が住むにも百姓をやるにも適さない荒地だったのである。
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