氷雪の殺人
 
  事件の背後には巨大な国家権力の闇が─― 北海道・利尻島。最北の地で起きた変死事件の極秘調査依頼された名探偵・浅見光彦。戦後、日本が失った「覚悟」をテーマに著者が描き出すエンターティメント傑作巨編。   
著者
内田康夫
出版社
JOY NOVELS / 実業之日本社
定価
本体価格 838円+税
第一刷発行
2001/09/25
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ISBN4−408−50385−1

プロローグ

冷たい缶コーヒーで乾杯して十五分か、せいぜい二十分ほど歩いたときに、富沢は異常を感じた。
膝がガクッとくる脱力感があり、それから頭の中がフッと空白になる予感のようなものが襲ってきた。
睡魔というやつかもしれない。(ばかな一)と首を振った。

こんな状況で眠くなるはずがない─と理性は判断している。
しかし、足元のゴツゴツした石を踏む感覚が、急速に遠のいた。
フワッと雲の上に踏み出したような気分が心地いい。

「ちょっと、疲れたみたいです。休ませてください」回りの悪い舌でそれだけ言って、登山道脇に尻を落とした。
「大丈夫?」と訊く声がやけに遠く聞こえる。
「いや、動けない……」と言ったつもりだが、自分の声さえもぼんやりしてきた。(おかしいぞ、これは─)救いを求める目を宙に彷徨わせたが、周囲の風景に焦点が合わなかった。

天地がグルッと回転し、ブッシュがスローモーションのように視野いっぱいに迫った。
本能的に両手で顔面を庇うのが精一杯だった。
全身が草むらに沈み込んだ。

何が起ころうとしているのか、富沢は朦朧とした意識の底で覚悟した。
(やはりこういうことだったのか─)
仕組まれた罠への予知はあったのだ。

なぜそう感じたのかは説明がつかないが、富沢にはこうなる予感が確かにあった。
不安といってもいいかもしれない。
旅のあいだずっと、その不安に怯えていた気がする。

だから、生きた証を残すように、万一のためのメッセージを残してきたのだ。しかし理性では、予感や不安は愚かしい妄想だとしか思えなかった。
こんなことが起こるはずはないと信じたかった。
それなのに、予感はそのとおりに的中したのだ。

もはや引き返すことのできない、最悪のシナリオが実現しつつあるのだ。
富沢は万斜の恨みをこめて、この「死地」に送り込んだ男の名前を呼ぼうとして「ハ・チ……」とまで言ったところで舌がもつれた。
唇の端から誕が流れるのが分かった。

拭おうとする意志はあったが、腕が思いどおりに動かない。
痛みも苦しみもなかった。
ただひたすら眠い。

居眠り運転の前兆のように、目を開けているにもかかわらず何も見えていない状態だった。
この眠りの先には死が待ち構えていると分かっていても、心地よい眠りの誘惑に抵抗できそうにない。
妻と二人の子供の顔が浮かんだ。

夢の中で彼らは笑っていた。
(眠っちゃだめだ─) 
一瞬の覚醒があって、指の先に地面の冷たさを感じたのが最後の知覚になった。

体がフワッと浮き上がって、しばらく空中を漂ったことと、その後の暗黒の地獄の底に落ちてゆく感覚は、すでに幻覚の中にあった。


第一章利尻島にて

男が入館したとき、展示ホールにはほかに客の姿はなかった。
もっとも、シーズンの最盛期を除けば、建物の中に入館者が一人もいないことは珍しくない。
利尻カルチャーセンターができた当初は、島の観光の目玉になることを期待されたのだが、それほどの効果はなかったようだ。
山本ちよえはチケット売り場と事務と、両方を担当しているけれど、手持ち無沙汰のときが多い。

カルチャーセンターが完成したときに、ちよえは町の職員である父親に勧められ、稚内の小さな会社を辞めて島に戻り、センターに勤めることになった。
初めの頃は館長とちよえと、もう一人、交代要員の女性がいたのだが、採算がとれないのと、仕事がさほど忙しくないことが分かって、いまは館長も非常勤で、ちよえ一人でほとんどの業務を処理している。

それでも、シ.ーズンオフやウィークデーなど、ひまは十分すぎるくらいある。ちよえはひまにあかして、展示ホールを飾る小物類をずいぶん作った。
案内標示から、古代の利尻島の生活を再現する小さなパノラマまで、玄人はだしと褒められるような出来映えの作品ばかりである。
もともと、ちよえは手先が器用で、稚内の勤め先も広告デザインや看板、それにイベントの展示物を作る会社だった。

仕事が好きだったし、給料の安さも我慢できないことはなかったのだが、このところの不況で会社そのものがピンチになった。
そこヘカルチャーセンターの話が持ち込まれたのは、いわば渡りに船の幸運だったといえる。
ちよえ会心の作となった最新作は「運だめしタンス」。

高さ四十ニセンチ、幅四十センチ、奥行き七センチのケースに、百個の引出しを嵌め込んだ大作だ。
素材は、外枠と縦横九筋ずつの仕切りには厚手の、引出しにはやや薄手のボール紙を使い、黒の色画用紙で上張りした。
表に面した部分には千代紙を貼り詰めて、ちょっと艶めかしい、純和風の可愛らしい「タンス」に仕上がった。

 

 

 

 

・・・・続きは書店で・・・・

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