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箸墓幻想
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著者
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内田康夫 | |||||
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出版社
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毎日新聞社 | |||||
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定価
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本体価格 1700円+税 | |||||
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第一刷発行
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2001/08/15 | |||||
| ISBN4−620−10648−8 | ||||||
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プロローグ 奈良盆地の空はうっすらと晴れてきた。 大和路の春はまだ浅いが、三輪山の山裾の里のそこかしこから、草木の芽吹きの音が聞こえてくるようなのどけさが広がった。 昨日まで、雪やみぞれまじりの雨が降ったせいか、野良仕事の人の姿はほとんど見えない。 濃緑色の岡である。 懐かしさと畏れと、それに生涯を費やしても購うことのできない罪の意識が、ある時は甘露のように、ある時は苦い胆汁のように湧いてくる。 その証のように、小池はついに妻を娶ることなく、七十六歳の春を迎えた。 小池はいつだって謙虚に、自分の正しいと思った道を選んできたつもりだ。 それは単なる不運とばかりはいえない。 そうして後半生はまさしく、自分らしい真っ当な道を歩んできたつもりであった。 業だとか因縁だとか、日頃はあまり信じない非科学的なものが、忽然と、亡霊のように現れたのである。 愛しく美しい妻を慕って黄泉の国に入ったイザナギが見たものは、欄れた腐肉に蛆虫が涌く醜悪なイザナミの姿である。イザナギは震え上がり、逃げ出した。 必死で逃げるイザナギと、妄執と怨念でいまはもはや死に神と化したイザナミ。 小池の胸に躊躇いがあった。 もし引き返せば、学者の良心を賭けて「あのこと」を阻止しなければならないだろう。 いまはもうイザナミ死に神の気のすむように、わが身を委ねるほかはない。これはかつて小池が犯した三つの「殺人」を償うべく、「約束された殺人」なのだ。
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