暗い宿
 
  チェックアウト はできますが、去ることはかないません。あなたを不可思議な旅を誘う四つの謎物語 火村&有栖川が挑む本格ミステリ作品集  
著者
有栖川有栖
出版社
角川書店
定価
本体価格 1500円+税
第一刷発行
2001/07/30
ご注文
ISBN4−04−873308−7

1

いつものように正午前に起き出した私は、目覚めのコーヒーを庵れながら朝刊をテーブルに運んだ。
一面を飾っているのは大阪府の深刻な財政赤字問題で、納税者の一人として浮かない気分で活字に目を走らせる。

由々しきことではあるが、起き抜けに大災害や通り魔殺人の記事を読まされるよりはまだましだ。
産業構造を改めて景気を回復させないことにはどうにもならない、と考えながらテレビ欄に目を転じてチェックし、次に社会面を開いた。

朝刊を後ろから読んでいくのは、新刊書籍の広告が大きく載っている第二、三面が私にとって最も楽しみだからである。
おいしいものは最後までとっておく質なのだ。
社会面にもあまり悲惨な記事はない。

大型レコード店のDJブースに人気ロックバンドがゲストでやってきたところ、黒山の人だかりになって一時付近が混乱した、なんていう太平楽なのがトップニュースだ。
死亡記事にも知った名前はないな、と欠伸をしかけたところで、ある見出しが目に飛び込んできた。

紙面をざっと見ただけだと見過ごしてしまうような小さな記事。まさか、と思いつつ読みかけた私は、奈良県吉野郡大塔村という地名に身を乗り出し、以呂波旅館という名前を確認した瞬間に背筋がぞくりと願えた。

あんな辺都なところに、同じ名前の民宿が二つあるとは思えない。
さらに記事を読み進んでみると、〈建て替えのために取り壊し作業をしていた〉とあった。もう万に一つの間違いもない。「ほんまかよ……」にわかに信じられなかった。
と同時に、やっぱりな、と納得する。

やっぱり、自分は大変な体験をしたのだ。
一人で驚いたり納得したりしている場合ではない。

これは警察に通報するのが市民の義務というものだろう。
とはいえ、食事をすませるぐらいは許されてしかるべきだ。

私は昨日の残りのカレーで軽い昼食をすませる。
それから、番号案内で調べて奈良県警に電話をかけ、担当の捜査員に自分の知るところを説明した。

刑事は大いに興味を示し、電話は三十分に及んだ。
その上、相手は一両日中に話を聞きに伺いたい、と言う。私は了承して、住所を教えた。

「……という字を書く有栖川有栖さん、ですね。お齢が三十四歳。ご多忙の中、重要なお電話をありがとうございました。それにしても、推理作家の方がそんな目に遭われたというのも面白いもんですね。いや、面白いとは不謹慎ですか」

蒲生と名乗った刑事は明らかに面白がっていた。
そりゃ、私自身にしたって、これは飛び切りの話のタネだな、という思いが頭をよぎらないでもない。

「伺う前に必ずご連絡いたしますので」そう言って切れた。
私は、めったに吸わない煙草を一服つけて気を鎮めてから、講義中かもしれないと思いながら、火村英生の研究室に電話をしてみる。
助教授はすぐに受話器を取った。

「俺や。今朝の新聞、手許にあるか?」
「アリスか?朝刊ならあるぜ。藪から棒に何だよ」スプーンとカップが触れ合うような音がする。コーヒーに砂糖を落としたところだったのだろう。
「社会面の下の方を見てくれ。死亡記事の右隣りだ」ガサガサと新聞を開く音がした。

「俺は、事件に巻き込まれたみたいなんや。というか、事件を目撃した一いや、見たわけではないんやけれど」
「何が言いたいんだ?」彼は冷めた口調で言う。
「落ち着け。あ、これは自分に言うたんやぞ。つまり、え一と、最初から言うよ」取材に出かけた経緯から、私は順に話しだした。


 

 

 

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