まえがき
一九九七年の三月(事件の起こったちょうど二年後)に、地下鉄サリン事件の被害者及び遺族の証言を集めた『アンダーグラウンド』という本を発表した。
その序文でも述べたのだが、この本を書こうとそもそも思い立ったのは、地下鉄サリン事件の一般被害者についての具体的な事実が、あまりにもわずかしかそしてほとんど同じ切り口でしか情報として世間に発表されていなかったからだった。
少なくとも私自身が切実にそのように感じたからだった。
混雑した朝の地下鉄の車内で何の前触れもなしにサリンガスを浴びせられるというのが現実的にどういうことなのか、それが被害を受けた一人ひとりの生活や意識にどのような変化を及ぼしたのか(あるいは及ぼさなかったのか)、ひとりの小説家として私はそれを知りたいと思ったし、私たち「市民」(最近ではいささか評判の悪い言葉みたいだけれど)はそれをもっとありありと知る必要があるはずだと考えたからだった。
知識としてではなく、あくまで実感として。
肌の痛みとして、胸を打つ悲しみとして。
まずそういう日常的な地点から始めないことには、地下鉄サリン事件とは我々にとって何だったのか、あるいはまたオウム真理教というものは我々にとって何だったかというパースペクティブがうまく立体的に立ち上がらないのではないかと思ったのだ。
それは「健全なる」被害者の側に立って「健全ならざる」加害者を弾劾するというような固定された動機から始められたことでもなく、あるいはまたこの事件にからめて社会的正義を追求することを目的として始められたことでもない。
もちろんそのような明確な目的を持って書かれる書物も、世の中には必要なのだろうとは思う。
しかしそれは少なくとも私の目指したことではなかった。私が目指したのは、明確なひとつの視座を作り出すことではなく、明確な多くの視座を-読者のためにそしてまた私自身のために作り出すのに必要な「材料」を提供することにあった。
それは基本的には、私が小説を書く場合に目指しているものと同一である。
実を言うと、ひとつのルールとして、私は『アンダーグラウンド』を執筆しているあいだ、なるべくオウム側の情報は収集するまいと心を決めていた。
というのは、せっかく頭の中に世間的な情報が入っていないのだから(実をいうと私はオウム真理教関連事件がマスメディアでもっともホットに報道されている時期のほとんどをアメリカで暮らしており、いわば情報の蚊帳の外に置かれていた)、できることならそういう無垢な白紙の状態のままで取材をしてみようと思ったのだ。
言い換えれば、私は可能な限り、一九九五年三月二十日における被害者たちと同一の立場に立ちたいと思った。
つまり何がなんだかよくわからないうちに、よくわからないものに致死的な襲撃をうけることになったという立場だ。
そのためにも私は『アンダーグラウンド』に関しては、オウム側の視点というものを意図的に排除した。
それを持ち込むことで、視点がぼやけてしまうおそれがあったからだ。
この時点では「あっちもわかりますが、こっちもある程度はわかります」というどつちつかずの姿勢だけは避けたかった。
そのために「視点が一方的だ」という批判を一部で受けたわけだが、撮影カメラの位置をひとつの場所に据え付けるということは、そもそもの原点としてこちらが意図的に設定したルールなのであって、そのような批判はこの本に対する有効な議論として成立しないのではないだろうか。
私は取材する人々に「精神が寄り添った」本を書きたかったし(それは味方をするというのとはもちろん違う)、彼らがそのときに感じたこと、考えたことをそのまま、できる限り生命のある文章として書きとりたかったのだ。
そのようなかたちでのコミットメントが文筆家=小説家としての、その時点での自分の役目だろうと私は考えていた。
決してオウム真理教というものの持つ、正負両方向における宗教的意味、社会的意味を頭から排除していたわけではない。
でもその仕事を終えて、本が出版され、あれやこれやの波が去って事態が一段落したあと、私の中で少しずつ「オウム真理教とはいったい何だったのか?」という疑問が膨らんできた。
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