森の中の海 上
 
  1995年1月17日5時46分─ 阪神・淡路大地震が奪ったのは、たくさんの生命だけではなかった。20世紀、多くのものを喪った我々に希望の光を与える文芸大作。  
著者
宮本輝
出版社
光文社
定価
本体価格 1600円+税
第一刷発行
2001/06/30
ISBN4−334−92335−6

第一章

その朝、いつもなら希美子は、起きていれば必ず三つのうちのひとつのことをしているはずであった。
台所からつづく十畳くらいの広さの居間のソファに腰かけ、窓から六甲の稜線を見やりながら、いれたばかりの珊俳を飲む……。
あるいは、洗面所に置いてある洗濯機の前に立ち、汚れ物を入れる籠の中身を洗い槽に入れたり、洗面台の周りの汚れを拭く……。

もしくは、配達された朝刊を取るために門扉のところに行き、ちょうどその時刻にはかったようにジョギングから帰って来るお向かいの江坂さん夫婦と立ち話をする……。
けれども、一昨日からの夫とのいさかいが尾を引いて、希美子は結婚して初めて、しっこく夫にさからいつづけ、寝室から自分の蒲団を運ぶと、もうじき子供たちの部屋になる予定の六畳ほどの洋間に寝たのだが、眠りは浅く、五時半に合わせた目覚まし時計の音を手さぐりで止めたあと、つかのまの深い眠りに落ちていたのだった。

希美子は、遠くから何かが押し寄せてくる音を聞いた。
何百頭もの馬が自分に向かって走って来るようでもあったし、地中の洞窟から気味悪い呪文が湧き起こったようでもあった。
妙な不安を感じて耳を澄ました瞬間、大音響とともに、希美子は蒲団と一緒に空中に放りあげられた。

近くに飛行機が落ちたのか、ダンプカーが家に突っ込んできたのかと思うまもなく、希美子の体は前後左右に大きく揺れた。
何かが体の上に落ちてきて、ガラスの割れる音や材木の折れる音が聞こえたので、希美子は両手で頭をかかえ、体をくの字にして、掛け蒲団のなかに隠れた。
希美子が、これは地震だと気づいたのは、揺れがおさまるほんの二、三秒ほど前であった。

掛け蒲団から顔を出し、起きあがろうとして、天井に頭をぶつけた。落ちてきた天井は、置き場所がなくてとりあえずその部屋に収納したままのドレッサーに支えられて、床から約一メートルのところでかろうじてとどまっていた。
しかし、いつまでも支えきれるものではないことは、ドルッサーの脚の軋みでわかった。

夫が希美子を呼びながら、部屋のドアをあけ、希美子の腕と脚をつかんで廊下にひきずり出した。
「スリッパを履けよ。ガラスで足の裏を切るぞ」
「あなた、大丈夫?どこも怪我はないの?」

「膝が痛いけど、血は出てないよ」
「地震でしょう?ねェ、これは地震よね?」そう言いながら、希美子は、とにかく外に出たほうがいいと思い、玄関へと這って進み、手さぐりでスリッパをつかんだが、とっさに、スリッパよりも靴のほうがいいと考えた。

「寝室はどうなったの?」
「割れた窓ガラスが飛び散ってる」夫は、あかない玄関の戸を体全体で押しながら言った。
こんな格好のままで外に出たら、寒さでどうにもならない。

何か着る物が必要だ。
ああ、銀行の通帳やキャッシュ・カードはどこに置いたのだろう……。
希美子は、寝室に入った。

自分の寝る場所に洋服ダンスが倒れていた。
それは、希美子の力では動かなかった。
押し入れの襖はあける必要がなかった。

それは上から圧しつけられて、くの字になって、夫の蒲団の上に飛んでいたのである。
希美子は学生時代に買って、いまは外出用には使えない大きなショルダー・バッグをつかみ、セーターを数枚と毛布をかかえて、寝室から出た。
「ちぎしよう。びくともしねエや」夫は、玄関から出るのをあきらめて、希美子に、どこか出口はないかみつけろと言った。

 

 
 

 

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