鬼譚草紙
 
  夢枕獏が書き、天野善孝が描く。戦慄のコラブレーション 鬼と人が交わり、人が鬼と化し、鬼が人を喰らう 妖艶で  
著者
夢枕獏+天野善孝
出版社
朝日出版社
定価
本体価格 1700円+税
第一刷発行
2001/08/01
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ISBN4−02−257656−1

歳月のたつことの、なんと疾いことでございましょうか。
かつてはあれほどに人の心を責め呵んでいたと思える哀しみすらも、長い刻が過ぎてみればほんの束の間のことのようでございます。
想いのみならず、人の身に宿る若さや美しさもまた川の流れに浮かぶ泡の如くに、生じてはまた消えてゆくもののひとつなのでしょう。

秋の逝くことのなんと不思議なことでございましょうか。
ただいたずらに齢を重ね、わたくしの髪も夜の雪の如くに白くなり、身体も衰えて、今は日々の立居振舞すらも思うにまかせぬありさまでございます。

今さらながら、過ぎゆく秋の疾さにおどろかされるはかりでございます。
さて─
今は、もう、昔のこととなってしまいましたが、染殿のお后さまにまつわるあの忌わしい風聞につきましては、誰もが耳にしたことくらいはおありであろうと存じます。

あれは、貞観七年、清和天皇の御時でありましたから、四十五年近くも昔のことになりましょうか。
大きな声で語るには、あまりにもははかられる出来事のため、こういつた噂話には口さがない方々ばかりの宮中でも、これを表立って口にする者はございませんでした。

公の席では、皆、顔色にも出しませんでしたが、しかし、陰では知らぬ者のないほどに、このことは人々の口の端にのぼっていたのでございます。
わたくしが、生命あるうちに、このことを語っておこうと決心いたしましたのも、あの頃、あまりにも多くの噂が流れてしまったため、起こったことの本当のところが見えなくなってしまっているからでございます。

そういう噂の中にはもちろん事実もございますが、あの時の鬼がどれほどに恐ろしいものであったかとか、お后さまのお姿がいかほどにあさましきものであったかとかが話題となって、あれが実はどのようなできごとであったのかという、事の本然がどこかへ忘れ去られてしまっているからでございます。

染殿のお后さまも、すでに十年前にお亡くなりになられ、この事にお関わりになられた方々もこの世を去られ、当時のことを直に知る者と言えば、今はわたくしひとりとなってしまいました。
この生命があの世へ旅立つ前に、このことを皆さまに申しあげておくのはわたくしの務めであると考えておりますれば、最後までお聴きいただければ、お后さまのお傍近くに仕えてまいりました者として、この百済継子望外の喜びにございます。

染殿のお后さまと言えば、清和天皇の御母君に当たられるお方で、関白太政大臣藤原長房公の御娘でござりました。
文徳天皇のお后で、御名を藤原明子とおっしゃいましたが、染殿にお住まいになられていたことから、染殿の后と呼ばれるようになったのでございます。

染殿というのは、四坊六、七町にわたる長房公の御邸で、庭も池もまことに興深く、花の頃や紅葉の頃、おりにふれてはやんごとなき方々が集って、歌の会やら宴やらを催すこともよくございました。
後に、七町の南半分を清和天皇に譲られましたが、今なお名邸として都に御邸が残っておりますのは御存じの通りでございます。

染殿のお后さまは、たいへんな御器量の持ち主で、その御形の美麗なること、この世のものとは思われぬほどでございました。
肌は滑らかによく磨かれた、艶かしい白い玉のようであり、そのふっくらとした赤い唇は、いつも天上の甘露を含んでいるように、ほんのりとした笑みを浮かべていらっしゃるのでした。人ならずとも、天地の間にある木石の精霊や、魑魅の類までもが、姫の美しさには心を奪われたことでございましょう。

姫さま御自身にも、人の眼には見えぬものが見えていたのでしょうか。
春先に貰子にお座りになって、御庭などを眺めておられる時などにも、見えぬものが空中を動いてゆくのを追うように、眼をあらぬ彼方にふっと動かされることもよくございました。

そこに何かいるのか、庭の石や、松の樹の陰などを、いつまでも長い時間、ずっと見つめていらっしゃることなどもよくあったのでございます。
そのためか、物の怪を煩われることなども度たびございました。貞観七年に、件のできごとが起こったのも、そもそもは、姫が物の怪を煩われたのが始まりであったのです。

お后さまの御年三十七歳の春であったと覚えております。そのような御歳であるとはいえ、姫さまの美しさは、いよいよの盛りをむかえた花のようであり、傍にいらっしゃると、たわわに咲いたかぐわしい大輪の牡丹の花がそこにあるようでございました。
わたくしは、その時まだ二十歳はかりであったのですが、そのわたくしと幾らも歳が違わぬように見えました。

さて姫さまに輝いた物の怪のことでございます。
その年の春先あたりから、姫さまの立居やお振舞、おしゃべりになることなどがどこかおかしくなったのです。


 

 

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