第一章 時代精神の体現者 戦後史の十字路に立ちつづける
【際立った存在感】
私はこれから石原慎太郎氏について一冊の本を書き出そうとしています。
石原氏についての本を書くことがいかに難しいかを痛感しつつある。
今日、多くの人が石原氏にたいして興味をもっています。
石原氏への期待の現われといってよいでしょう。
だがまた石原氏ほど多くの情報が提供されている人も滅多にいない。
二十三歳、『太陽の季節』でデビューして以来、石原氏ほど長期にわたって国民的な関心を集めつづけた人もいないでしょう。
おそらく戦争が終わってこの方、氏に対抗できるのは長嶋茂雄氏ぐらいではないでしょうか。
作家でいえば三島由紀夫、政治家では田中角栄の二人が、やはり世を蓋うような関心の対象だったことがあります。
けれども、三島、田中とも石原氏にくらべると、活動期間も世間の視線を集めていた時期も圧倒的に短いのです。
なぜ石原氏はかくも長い期間─むろんその間には多少の浮滋はあったのですが─にわたって人々の強い関心を集めつづけてきたのか。
それは、きらびやかな才能のためであり、そのダイナミックな活動のためである。
そういうのは簡単であるし、事実でもある。
けれどももっと重要なことは、石原氏が時代の節目節目に際立った存在感を示してきたということです。
フランスの作家で石原氏にも少なからず影響を与えたアンドレ・マルローは、かつて「現代史の十字路のすべてにマルローは立っていた」といわれました。
石原氏にもそういうところがある。
日本人にとって忘れがたい体験の多くに、常に石原氏は印象深い登場人物としてかかわってきた。
【時代精神の「核」を体現】
かくも高名であり、多くの人が語っている石原氏について、なぜ今一冊の本を書かねばならないのか。
巷には石原氏について、さまざまな情報が流れています。
肯定的、否定的を問わず、論評も応接に苦労するほど出ている。
あるいは、政治指導者として首相として、石原氏の登場を待望する書物もたくさん出ています。
にもかかわらず、ここでなおまた新たに一冊、石原氏についての本を出すのはなぜか。
正直にいえば、私自身が石原慎太郎という人物を、一度しっかりと見つめてみたかった。
自分なりに氏の全体像を再構成してみたかったのです。
石原氏は、今も述べたように、戦後を代表する人物です。
石原氏には戦後日本のエッセンスが集約している、といってもいいかもしれません。
誰もがその時代の子であることを考えれば、石原氏のみならず、誰でもがある意味では時代精神の体現者ではあります。
しかし、石原氏ほど、常に公的な視線の下で時代の「十字路」の中央に立ちつづけた人はいません。
『国家なる幻想』や、『わが人生の時の人々』といった回想録を読めば、いかに石原氏が、その時その時の寵児たちと親交をもち、彼らとともに、長く人口に膾炙するようなエピソードを残し、新しい試みを展開してきたかがわかります。
だとするならば、やはり石原氏には、現在の日本がもっている時代精神の「核」のようなものが、いずれにしろ体現されているに違いない。
しかも石原氏は現在と未来を託しうる数少ない政治家、指導者として嘱望されている。
氏が集めている輿望は、現在の日本が乗り上げているデッドロックの本質ときわめて密接な関係をもつとともに、そこからいかに脱出するかという方向性とも関係があるのです。
だとするならば、石原慎太郎を究明することは、わが国が現在において抱え、未来に向かって解決しなければならない困難な課題を解き明かす糸口にもなるのではないでしょうか。
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