フルーツの夜
 
  劇的日常のコメディに僕は巻き込まれた。アンダーグランドな世界の証言者、「裏本時代」「アダルトビデオ」著者の新境地、待望の初小説。  
著者
本橋信宏
出版社
河出書房新社
定価
本体価格 1600円+税
第一刷発行
2001/07/20
ISBN4−309−01420−8

1991年の共産主義者

男は二十年ぶりに見る外の景色をどんな思いで受けとめているのだろうか。
暗闇が鉛色の空に変わる四月の早朝、府中刑務所の鉄板のドアが開き、青田敏哉氏が出所した。
半世紀近くを生きてきた男は想像していたよりも大柄で、髪に白い物が混じっている。

出迎えた支援者が数人しかいないため、張りついていた機動隊員たちは拍子抜けした様子だ。
くたびれたワゴン車に猫背の青田氏ががに股で乗りこんだ。
あわてて僕も乗りこむ。

運良く青田氏の隣にすわることができた。
福原という中年の男がドアを閉めると、運転席にすわり「まずはファミレスで釈放祝いとしましょうか」と言った。
「ファミレスってなんや?」

「そうでしたよねえ。議長は知らないですよね。二十四時間営業で食事ができたりコーピーが飲める店のことですよ」
青田氏は気むずかしそうに腕を組んだ。
運転手役の福原さんもきょう出所した人物も、新左翼の活動家というのはどこか共通する顔をもっている。

左翼顔とでもいうのだろうか、痩身で、眼鏡をかけ、手入れを忘れた油っけのない髪で、骨張った、気むずかしそうな、どこかの数学教師 のような面相だ。
ワゴン車はすかいら-くの駐車場で止まり、空席がめだつ店内に僕らは入った。

このところよく耳にする「東京ラブストーリー」の主題歌が流れている。
透き通った歌声は早朝によく似合っていた。
青田氏に奥の席をすすめ、隣に福原さんが腰をおろす。僕は福原さんと同世代の中年男性二人と同じシートにすわった。

「まずは乾杯といきたいところやが、いきなりアルコールを腹に入れても毒やろ。コーヒーで乾杯といこうか」青田氏の言うとおり、全員がコーピーを注文した。
テーブルに湯気の立つコーヒーカップが並ぶとそれぞれがカップを手にして乾杯する。
「ううっ。きついなあ」青田敏哉氏は眉をしかめ、テーブルの上にある砂糖袋を四つも黒い液体に溶かしこんだ。

「中ではコーヒーも飲めなかったんですか」僕の質問に、青田氏は何度もうなずいた。
「年に一回だけ、正月にコーヒーが飲めるんや。薄くて水みたいなやつだよ。カフェインなんかほとんどないんとちゃうか」カフェインが身体に浸透して味に慣れてきたのか、青田氏はすかいらーくのコーヒーをうまそうに音を立ててすすった。

「福原君。きょう出迎えてくれた仲間を紹介してくれんか」
「ああ。そうでした」
福原さんが中年男性二人を青田氏に紹介した。

「ああ。あんたらもうそんな歳になるか。たしか俺が新宿で捕まったとき、あんだらば明治と早稲田の一年生だったな」
中年男性の一人は現在、中学校の教師となり、もう一人は市ヶ谷にある製本会社の営業マンをやっていると自己紹介した。
「それで、あんたは?」青田氏が僕に視線をむける。

「ひょっとすると、公安の刑事か」出所したばかりの男は意地わるく薄笑いした。福原さんが横から僕のことを紹介しはじめた。
「彼は議長の半生を書きたいからということで僕のところに連絡してきたんですよ。政治や社会問題を書いてるんだっけ?」こういう依頼は最初が肝心だと思い、僕は六年前に書き下ろした「全学連研究」という自著をLOUIS VUITTONのカバンから取り出した。

青田氏が手に取り、眼鏡をはずすとべ-ジに顔を近づけて斜め読みする。
「あんたも何かセクトに入っていたんか?」
「いえ。政治的なことにはまったくたずさわったことはないんです」

「なんで新左翼のことを書いたんや?」
「恐いもの見たさっていうんでしょうか」
青田さんが不思議そうな顔になった。

 

 

 

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