天狗風
 
  一陣の風が吹いたとき、嫁入り前の娘が次々に神隠しに─―。不思議な力を持つお初は、算学の道場に通う右京之介とともに、忽然と姿を消した娘たちの行方を追うことになった。ところが闇に響く謎の声や観音様の姿を借りたもののけに翻弄され調べは難航する。『震える岩』につづく”霊験お初捕物控”第二弾。  
著者
宮部みゆき
出版社
講談社文庫/講談社
定価
本体価格 781円+税
第一刷発行
2001/9/15
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ISBN4−06−273257−2

第一章 かどわかし

朝焼けの怪

江戸深川は漸"蔀裏の山本町で、ひとりの娘がこつぜんと姿を消した。
それがそもそもの事の始まりだった。
消えた娘の名はあきという。

今年十七になる下駄屋のひとり娘で、半月後には浅草駒形堂近くの料理屋へ縁付くことが決まっている身の上だった。
想い想われて定まった縁談で、本人も花嫁衣装を着るその日を心待ちにしていたのにおあきが姿を消したのは、朝焼けの濃い春の朝のことだった。
その日、下駄屋のあるじであり、おあきの父である政吉は、長い夜のあいだじゅう、ひどく嫌な夢にうなされ、眠る前よりもくたびれたような心持ちで寝床を離れた。

毎朝日の出前に起き出して、仕事場へ足を運び、神棚をおがんで道具をいじってからでないと朝飯がしっくり瞬を通らないという性分の政吉は、夢の名残でしくしく痛む頭をおさえて、仕事場へとゆっくり階段をおりていった。
政吉を痛めつけた夢は、目覚めたあともなお、彼を震えあがらせるだけの力を持っていた。

生乾きの下帯を身につけてしまったかのような気色悪さが、背中から腰のあたりにへばりついている。
階段を踏みしめる齢が、一歩ごとに頼りなく震えた。
どうもいけねえと、政吉は思った。

このところ、柄にもなくあっちこっちへ気を遣いづめの暮らしをしてきた。
それがまずいんだろう。
きっとそのせいだろう。ひとり娘のおあきを嫁に出すことが、寂しくないわけはない。

縁組が決まって以来、日に日につややかさを増してゆく娘の立ち居ふるまいや、かがやくような笑みを浮かべる桜色の頬を見るたびに、悔しいような腹立たしいような、胸の奥の急所を指先でぐいと突かれるような思いも味わってきた。

今のような一本立ちの職人になり、狭いけれど自分の店を持つことができるようになるまでの苦労ときたら、本当に言葉にはできないほどだ。
思い出話をしていると、いい歳をして今でもふと涙ぐんでしまうほど、それは辛いことの連続だった。
そんな暮らしを乗りきってくることができたのは、一にも二にも、娘のおあきがいたからだ。

そのおあきがいってしまう。手元からいなくなってしまう。
もう政吉が守ってやることも、喜ばしてやることもできなくなる。
そりゃあおあきが惚れた男だろうけれど、政吉から兄たらとんだ青二才だ。

あんな男に大事なおあきを預けることなど、俺にはとうていできねんと、腹の底から大波がこみあげてくることもしばしばだ。
だが政吉はこれまで、そういう気持ちが顔や態度に出ないように気をつけてきた。
ぎゅうと抑えつけた気持ちがあふれ出そうにをるのを、奥歯を噛んでこらえてきた。

それが裏目に出て、妙な夢になったのかもしれない。
夢のなかで、政吉はおあきを殺そうとしていたのである。
(いったい、親父が娘をあやめようとするなんてことがあるもんか)

雨戸をたてきった暗い廊下を歩きながら、政吉はいく度となく首を振った。
昨夜の夢のなかで政吉は、どことも知れない大きなお屋敷のなかにいた。
呆れるような広い座敷の真ん中に、ひとりでぽつんと立っている。

そういうところから始まった。夢の政吉は、なにやらひどく心急ぐ気持ちになっていた。
誰かを追いかけているらしい。
その誰かは、このお屋敷のなかにいる。

だから政吉は動き出した。
ほとんど走るようにして、目の前にある豪奢なふすまに手をかけた。
ぴしりんという小気味好い音を立て、ふすまは左右に開いた。

そこにはまた、うしろの座敷と同じような広い畳の海が広がっている。
政吉はそこを飛ぶようにして横切る。
次のふすまを開ける。

するとまた座敷が広がる。
次から次へと座敷を走り抜けながら、政吉はふすまを開けてゆく。
だんだん気が急いてくる。

そのうち、頭の上のほうから大勢の人が笑い騒ぐような声が聞こえてくることに気がつく。
つと目をあげると、声のぬしは、ふすまの上の欄間に彫りこまれた、あでやかな観音さまであるとわかった。