タリバン
 
  世界で初めて明かす「超過激集団」の謎 大物テロリストと極端なイスラム原理主義を結ぶアフガン回廊のミステリー ★ タリバン、突然の登場 ★ イスラム 学校の神学生 ★ 競技場の公開処刑 ★ 謎に包まれた政治活動 ★CIAの資金 ★   
著者
アハメド・ラシッド
出版社
講談社
定価
本体価格 2800円+税
第一刷発行
2000/10/20
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ISBN4−06−210255−2

まえがきと謝辞

この本を書き終わるまでに、二一年かかった。
それはほぼ、わたしが記者としてアフガニスタンを取材し続けた年月でもある。
アフガニスタンでの戦争は、パキスタンのジャーナリストであるわたしにとって、人生の大きな仕事だった。

報道すべき出来事がたっぷりあった。
のちには中央アジアのニュース、さらにソ連の崩壊が加わった。
なぜ、アフガニスタンなのか?

平和なときでも戦争のなかでも、この国を訪れた人はだれも、アフガニスタンは世界で最も独特な部類に属する、ということを理解するだろう。
アフガン人はまた、今世紀、最も大きな悲劇の一つの犠牲者だといえる。
この時代で最も長い戦争は、語られることのない不幸を人々にもたらした。

かれらについて語るとき、かれらの性格は大きな矛盾をはらんでいる。
勇敢で、堂々としていて、名誉を重んじ、寛大で、客に親切で、優雅で、ハンサムなアフガン人は、曲折した、卑しい、残忍な心の持ち主でもある。
何世紀もの間、ペルシャ人、モンゴル人、英国人、ソ連人、そして最近では、パキスタン人も加わったアフガン人とその国を理解しようとする試みは、結局、力による外交ゲームになった。

しかし、よそ者はだれも、アフガン人たちを征服することも、思いのままにすることもできなかったのだ。
今世紀に、英国とソ連という二つの大敵を追い出すことができたのは、アフガン人だけだった。
しかし、この二一年間の戦争でアフガン人は、一五〇万人の死者と国土のひどい荒廃という、巨大な犠牲を支払わなければならなかった。

わたしにとって、アフガニスタンとのかかわりには、運が大きな役割を果たした。
わたしは偶然、まさにそのとき、その場所に居合わせたのである。
一九七八年、アフガニスタン分裂のきっかけとなったクーデター発生の際、わたしは首都カブールで、ダウド大統領の官邸への戦車部隊の攻撃を見ていた。

その一年後、カンダハルに最初のソ連軍戦車が侵入してきたとき、わたしはバザール(市場)でお茶をすすっていた。
ソ連軍とムジャヒディン(イスラム武装勢力)の戦争を取材しているさなか、多くのジャーナリストたちがそうだったように、本を書くことを家族はわたしに強く勧めた。
わたしはそうしなかった。

書くことが多すぎ、どこからはじめてよいか分からなかったからだ。
一九ハ八年、国連が仲介した難しい交渉の取材で、数ヵ月をジュネーブで過ごしたのち、わたしは本を書く決意をした。
ジュネーブ交渉は、アフガニスタンからのソ連軍撤退の協定で終わった。

ジュネーブには、二〇〇人ものジャーナリストが集まっていたが、幸いにもわたしは、国連、アメリカ、ソ連、パキスタン、イラン、そしてアフガニスタンの外交官たちの間の、さまざまな駆け引きの多くを密かに知ることができた。
しかし、わたしの初恋の対象、アフガニスタンがジュネーブからまっすぐ、いまにいたるまで続いている無意味な血みどろの内戦に突き進んだため、そんな本を書くことなど、ありえなかった。
その代わりわたしは、アフガニスタン紛争の原型を見るため、中央アジアに行き、ソ連の崩壊を目撃することになった。

わたしは、中央アジアの新独立諸国の展望についての本を書いた(訳注一邦訳『よみがえるシルクロード国家』講談社)。
しかし、アフガニスタンはいつも、わたしを引き戻した。
わたしは、ナジブラ政権が崩壊し、カブールがムジャヒディンに陥落した一九九二年、銃弾を避けながら首都に一ヵ月滞在した。

そのとき、本を書くべきだった。
アフガン問題はわたしをモスクワ、ワシントン、ローマ、ジッダ、パリ、ロンドン、アシガバードヘと連れていった。
最終的には、タリバンの特異性と、その彗星のような登場に関する文献がないことが、二一年間にわたるアフガニスタンの歴史とタリバンの話を語らねばならない、とわたしを説得した。
わたしは、何年にもわたってアフガニスタンを真剣に取材した唯一のパキスタン人ジャーナリストだった。

この隣国の戦争が、パキスタン外交の重荷で、ジア・ウル・ハク軍事政権を居座らせ続けたにもかかわらずだ。
もし、ほかにわたしの関心の理由をいうとすれば、イスラマバードのアフガニスタン政策が、パキスタンの将来の安全保障、国内政治にきわめて重要な役割をもち、国内にイスラム原理主義の反発を呼び起こすに違いない、という一九九二年からの確信だった。

今日、麻薬、武器、腐敗、暴力の広がりで、パキスタンが政治的にも、経済的にも、社会的にも、どん底でもがいているとき、アフガニスタンで起こっている事態は、パキスタンにとって一層、重要なごとになった。パキスタンの政治家たちは、わたしの書くごとに、いつも同意するとは限らなかった。
ジア(ハク大統領)に異議をとなえるのは、やさしいことではなかった。
一九ハ五年、.ジアの情報機関から、わたしは数時間、尋問され、わたしの評論を理由に、六ヵ月間、書かないように警告を受けた。

わたしは、匿名で書き続けた。
わたしの電話は常に盗聴され、行動は監視された。
アフガニスタンは、アフガン人自身と同様、記者たちをくたくたに疲れさせる矛盾に満ちた国である。
ムジャヒディン過激派の指導者、グルブディン・ヘクマティアルは、わたしとBBCのジョージ・アー二一に、共産主義シンパとして死刑を宣告した。
そして、一年間もわたしの名前を指名手配のように、かれらの新聞に載せつづけた。

のちに、ヘクマティアルの部隊が発射したロケット弾が、ミクロヤン住宅団地で小さな少年二人を殺した。
その直後、その場に居合わせたわたしを殺そうとして、群衆が追いかけてきた。
群衆は、わたしがヘクマティアルのスパイで、ロケット攻撃の被害を調べにきたと思ったのだ。

一九八一年、ナジブラが、KGB(ソ連の秘密警察)をモデルにした悪名高い、アフガン共産主義者の秘密警察KHADの長官をしていたとき、かれは、自らわたしを尋問した。カブール郵便局で、禁止されていたタイム誌のコピーを読んでいたため、KHADの将校に逮捕されたときのことである。
のちに、かれは大統領になり、わたしは数回インタビューしたが、かれは、わたしがベナジル・ブット・パキスタン首相の親書を携えてくるかもしれない、と考えていた。
わたしはかれに、ブット首相はわたしの話を聴かないだろうといったが、事実、彼女は聴かなかった。

そしてわたしは、アフガン共産主義者の部隊とムジャヒディンの、敵対するムジャヒディン同士の、さらにタリバンとマスード軍の戦車隊の撃ち合いに何回もぶつかり、身動きできなくなった。
わたしはけっして戦闘員タイプではないので、たいていの場合は身を縮めていた。
アフガニスタンに対するわたしの関心は、多くの人々とりわけアフガン人たちの助力がなければ、持ち続けることができなかったろう。

タリバンのムラー(イスラム指導者)たち、反タリバンの司令官たち、前線に立つ指揮官たち、戦場の戦士たち、そしてタクシー運転手たち、知識人たち、国際援助要員たち、農民たち。
多すぎて名前を紹介することができず、また、名を出すにはあまりにも微妙な立場にある人たち。
すべての人たちに感謝を捧げる。

アフガニスタン以外では、パキスタンの閣僚たち、外交官たち、将軍たち、官僚たち、そして情報機関の幹部たち。
わたしを利用しようとする人も、わたしの見方に心から同感する人もいたが、かれらの多くが、信頼できる友人になった。
本書は、わたしの取材旅行と留守に耐え、長いあいだアフガニスタンヘの思いを、わたしと共有してくれた、妻エンジェルスと二人の子供たちの愛と理解がなければ、書くことはできなかった。

ラホールでアハメド・ラシッド