冷静と情熱のあいだ Blu
 
  あのとき交わした、たわいもない約束。十年たった今、君はまだ覚えているだろうか。やりがいのある仕事と大切な人。今の僕はそれなりに幸せに生きているつもりだった。だけど、どうしても忘れられない人、あおいが、心の奥に眠っている。あの日、彼女は、僕の腕の中から永遠に失われてしまったはずなのに。切ない愛の軌跡を男性の視点から描く、青の物語。  
著者
辻仁成
出版社
角川文庫/角川書店
定価
本体価格 438円+税
第一刷発行
2001/9/25
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ISBN4−04−359901−3

第一
人形の足

この街はいつだって光が降り注いでいる。
ここに来てから、ぼくは一日たりと空を見上げなかった日はない。
青空はどこまでも高く、しかも水で薄めた絵の具で描いたように涼しく透き通っている。

霞のような雲はまるで塗り残した画用紙の白い部分みたいにその空の中を控えめに漂い、風や光と戯れるのを喜んでいる。
こうしてドゥオモの袂に立ち、大聖堂の壁面沿いに光の源を見上げて、中世の人々の意識の背伸びを想像するのが日課となってしまった。
ドゥオモはフィレンツェの街の真ん中に従耳えており、大抵どこからでも見ることができる。

天才建築家ブルネッレスキによって掛けられた半球状の円蓋クーポラは、スカートを膨らませた中世の貴婦人を見るようで微笑ましい。
チェントロ(街の中心地)の方角を確認するにはいい目印になる。
花の聖母教会とも呼ばれるこの大聖堂の、白と緑とピンク色の大理石で装飾された外観は、威厳と優雅さに溢れ、見上げる者を圧倒する。

仕事が終わって先生のアトリエを出た時に、ポンテ・ヴェッキオの先に、夕焼け色に染まるドゥオモのクーポラを見つけると、なぜだろう、安心するんだ。
そんな心地よい夕刻はついドゥオモまで大股で歩きたくなってしまう。
また同時に、こうしてドゥオモを見上げながら、少し後ろめたくなる理由も分かっている。

それはぼくがこの街に来てまだ一度もドゥオモに登ったことがないわけと同じ。
ささやかな賭け事のような、きっと、もうぼくしか覚えていない約束に由来している。
あおいのことがいまだに忘れられない。

人はどうして出会ってしまうのだろう。
そんた哲学もどきの問い掛けが、このルネッサンスの精神を残す街では、ぼくを捉えて離さない。
世界中からここへ集まってくる観光客たちがぼくと同じように首を痛めながら頭上を仰ぐ姿を見るたび、みんな自分と同じように忘れられない人がどこかにいるのだ、と勘繰ってしまう。

「ブルネッレスキの建築って、すばらしい!そうおもいませんか」ほとんどの人々は片言のぼくのイタリア語に驚き、東洋人であるところのぼくの怪しげな笑顔に圧倒され、視線も合わせずにその場から立ち去ってしまう。
あおいもぼくのそういう性格には、時々ついていけなくなる、と口にしたことがあった。

「あなたって人は、場所もわきまえないで、わたしをこまらせる冗談ばかり」
もちろんあおいは視線をそらして立ち去ったりはしなかった。
むしろ突拍子のないことを言いだすぼくのことをいつもどこかで面自がってくれていた。

「順正は変わっている。変わっているところが好き」
変わり者だったぼくを彼女だけが見放さたかったと言っても過言じゃない。
世界でただ一人、彼女はぼくの理解者だった。

忘れようとすればするほど人は忘れられなくなる動物である。
忘れるのに本来努力なんていらないのだ。
次から次に降りかかる日々の出来事なんて、気がついたら忘れてしまっているものがほとんど。

忘れてしまったことさえ思い出さないのが普通。
ある時ふいに、そういえばあんなことがあったなって思い出すことがあっても、引きずったりしないから、記憶なんて大概優いカゲロウの羽根のようなもので、太陽の熱にそのうち溶かされ、永遠に消え去ってしまう。

ところがあれから五年もの歳月が経っているというのに、忘れさろうとすればするだけしっかりとあおいの思い出は記憶されてしまい、ふとした瞬間、たとえば横断歩道を渡っている一瞬や、仕事に遅れそうで走っている最中、酷いときは芽実と見つめあっている時なんかに、亡霊のようにすっと現れ出てきてぼくを戸惑わす。

忘れられない異性がいるからと言って、今が不幸なわけではない。
現実から逃げだしたいわけでもない。
この街の透き通る青空のように清々しい気分を日々それなりに満喫している。

ましてやあおいとの恋の復活を願っているわけでもない。
あおいとは永劫に会わない予感もするし、実際会ったってどうにもならないことは分かっている。
でもこれは記憶の悪戯のようなもので、ここが時間を止めてしまった街だからなのか、ぼくは過去にふりまわされることをどこかで喜んでいる節がある。

喜ぶだって?
あおいはもう戻ってはこない。
彼女はそういう女だし、ぼくだってそれを期待するような男ではない。

人間には必ず、別れなければならない時がある。
例えば死別のような別れ……
ぼくとあおいはそんな別れをかつて持った。

ぼくはもう彼女は死んでしまった、
と思い
込もうとしている。

世界の美術品の三分の一はイタリアにあるといわれている。
ぼくがレスタウロ(修復)の勉強をするためにここに来たのは当然だと言える。

ここには世界で最高水準のレスタウラトーレ(修復士)が大勢いて、例えばぼくの先生だって、油彩画の修復にかけては第一人者なのだ。
ジョバンナはぼくの先生というだけではなく、母を早くに失ったぼくにとっては母親のような人。
彼女の注文通りに生きる日々は、神の掌の上にいるようで制御されていて気持ちがいい。