人形は自分たちが芝居小屋の中で芝居をしていることを知っているかもしれません。
しかし、自分に糸がついていて、それで操られているとは、けっして認識できないのです。
二階堂黎人『地獄の奇術師』
第一章
死体は家に帰り着く
1
年上の女性を伴って大学のキャンパスを歩くのは初めてだった。午前中の構内で学生にすれ違うことはほとんどない。
それでもどこからか視線を感じてしまうのは、ぼくが必要以上に彼女の存在を意識しているためだろう。
グレーのパンツスーツに黒のロングコート。
ヒールの低い靴で、背筋を伸ばして歩く姿は仕事の出来る女性を連想させた。
緊張することなどないんだ一そう言い聞かせ
て、ぼくはちらりと彼女の横顔を盗み見る。
知的な印象を与える秀でた額に汗が浮かんでいた。
季節は秋から冬へと移り変わろうとしている。
汗をかくような陽気ではない。
「やっぱり、持ちますよ」
ぼくは彼女の荷物に手を伸ばした。
「いいえ、大丈夫です」首を振る年上の女性。
「これが仕事ですから……」そう言って、彼女はぼくから遠いほうの手に紙袋を持ち替える。
袋には『DRAGON』という文字が印刷されている。みさき書房や稀譚社という名は知っていても、竜王出版と聞いてピンとくるミステリファンは少ないだろう。
まして、その出版社がドラゴンノベルズという新書判の推理小説を刊行していることなど、よほどのマニアでなければ知らないはずだ。
女性の持っている紙袋の中には、そのドラゴンノベルズの新刊が十冊ほど収まっているという。
一冊、四百ぺージを越えるミステリの著者はぼくだった。
今年の四月に体験した《流氷館事件》を『ドッペルゲンガー宮』と題して、小説仕立てにした原稿を竜王出版に送ったのが四ヵ月前。
すぐに出版の方向で検討していますとの連絡はあったのだが、以降、音沙汰がなくなった。
こちらから催促するのもずうずうしいような気がして黙っていたら、先月いきなりゲラが送られてきて、来週にはもう書店に並三とレう書き直しや著者校正がほとんどなかったのは作品の完成度が高いからではなく、単に実際の事件と小説の出版の間隔を空けたくなかったためだと説明された。
ぼくへの連絡が滞っていたのは、最後の最後まで出版部長がゴーサインを出さなかったからだそうで……確かに現実の事件を題材にしている上に、作品の性格上、登場人物の名前を変えることが出来ないのだから、刊行をためらって当然だった。
結局、あの事件が世間の記憶に残っているうちにセンセーショナルな惹句をつけて売ってしまおうということで、部内では決着を見たらしいが、そう進言して出版部長を説き伏せてくれたのが、今ぼくの隣で紙袋を持っている女性なのだそうだ。
上品そうな顔をして、なかなかのやり手である。
いずれにせよ………売り逃げだと非難されようが、あざとい戦略だと諺られようが……憧れの推理作家になれるのなら、ぼくはどんなチャンスも逃したくはなかった。
幸か不幸か、本格ミステリの題材になる事件に遭遇することにかけては自信(?)がある。
現に、二作目以降も実体験を基にした『カレイドスコープ島』『ラグナロク洞』『アポトーシス荘』『クロックワーク湖』と、ラインナップはそろっている。
「いよいよ、本物の《あかずの扉》研究会のみなさんにお会い出来るんですね」
隣の女性が弾んだ声で言った。
これまでの仕事用の顔が一瞬ほころんで、少女のような笑みを浮かべる。
男はこういう落差に弱い。
その時、「なに、でれっとしてんの」いきなり、険のある声をかけられた。
見れば、正面にそびえているイチョウの木の下に空色のピーコ!トを着た女の子が立っていた。
女の子はポケットに両手を突っ込んだままこちらに歩いてくる。
「あ、ユイちゃんですね」ぼくより先に隣の女性が反応した。
確かに、近づいて来る女の子は由井広美だった。
ぼくが所属する《あかずの扉》研究会のメンバーだ。ユイは、はじめまして、と頭を下げる女性編集者を無視して、「ここ、伸びてるよ」いきなりぼくの鼻の下に人差し指を押し当ててき
た。
続けて、「ここは下がってるし……」と、眉毛をなぞる。
「それに、ここが思いっきり垂れてる」目取後はあかんべをさせるように、下瞼を引き下げた。
「単純なんだから」少し怒ったように言う。確かに、鼻の下が伸び、眉が下がり、目が垂れていたのなら、ぽくは絵に描いたような《でれっとした男》を演じていたのだろう。
「おまえ、木の陰に隠れてこっそり見てたのか」ぼくは反撃の言葉を探す。
「どうも、さっきから視線を感じると思ってたんだ。こそこそしやがって……」
「あたしはずっと木の前にいました。カケルのほうこそ、そのおねえさんの顔ばっかり見てて……こっちのこと、全然気づかなかったんじゃない」
|