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「あんたア……もうどこにも行かないどくれよ……もうどこにも……」
─薄幸な女は夜汽車の窓にもたれて言った。
ぼくは月のうち一週間か十日を、神田駿河台にある「山の上ホテル」で過ごす。
そう、昔から文化人の宿として有名な、そして現実にいつ行っても小説家の二人や三人はカンヅメになっている、あのクラシックホテルである。
べつに伊達や酔狂ではない。
遁世して小説を書くにはまことに適した場所だからそうするのである。
東京のどまんなかにあるのに極めて閑静で、大学の図書館や古本屋街が近いから、とっさの資料調べにも事欠かない。
小ぢんまりとしたサイズは落ち着くし、何よりもホテル側に、締切に追われてカンヅメになっている作家に対する十分な配慮がある。
いわば牢屋番としての配慮である。
「文化人の宿」という伝統的なコンセプトがそれほど徹底しているというわけだ。
たとえば近ごろ気付いたことなのだが、ここの従業員たちは客がカンヅメになって書いている原稿がいったいどこの出版社の依頼によるものかということまで知っているらしい。
業界の情報を把握しているのか、一読者としての推測であるかは知らない。
だがともかく、ぼく自身が予約し、ひそかにチェックインし、自発的にカンヅメとなっていても、なぜか原稿の依頼主を知っているらしいのである。
この点はまさに神の配慮と言えよう。
古いホテルの窓に凩の鳴く夜のことだった。ぼ
くはそつなく用意された作家専用の大机に向かって、〈哀愁のカルボナーラ〉のクライマックスに挑んでいた。
それは〈仁義の黄昏〉シリーズの大ヒットにより極道作家の烙印を捺されてしまったぼくが、アイデンティティーの回復を賭けて世に問う、ぶっちぎりの恋愛小説である。
なにしろヨーロッパに留学中の女性ヴァイオリニストが、かつての恋人である新聞社特派員と、ベネチアのサン.マルコ広場で偶然出会い、たちまち焼けぼっくいに火がついて地獄の恋に堕ちてしまうというのだ。
原稿の半ばまでは、すでに大日本雄弁社の編集者に渡してある。
半ばといったって五百枚もあるから、先方が気に入ろうと気に入るまいと、もはや取り返しはつかない。
もちろんヤクザの出番はなく、銃声も聴こえず、お得意の法的医学的用語を駆使した露骨なセックス.シーンもない。
古今の恋愛小説の定義に従い、物語はさしたる盛り上がりもなく、ただ哀しく美しく、ダラダラと進む。
数日後、件の編集者がすっ飛んできて、「そろそろマフィアが出てきますよね、そうですよね」と言ったので、すかさずバックドロップを決めてやった。
クライマックス.シーンは、ヴァイォリニストと新聞記者がたそがれのゴンドラに乗り、夕日に染まった「溜息の橋」の下で熱いくちづけをかわすのである。
──古いホテルの窓に凩を聴きながら、ぼくはうっとりと、恋人たちをいざなう船頭になっていた。
電話が鳴った。
ぼくは呪いの雄叫びを上げて原稿をまき散らし、壁に十回も頭突きをくれてから受話器をとった。
フロントマンは怒鳴り返す気にもなれぬほどの文化的な声で言った。
「──大日本雄弁社の荻原様がご面会です」ぼくは静かなバリトンで答えた。
「はい。今おりて行きます。ロビーで待たせて下さい」浴衣とスリッパでロビーに降りて行けないのは、山の上ホテルの唯一の欠点である。
着替えをしながらフト考えた。
オギワラという名の編集者は知らない。
おおかた新入社員に差し入れの弁当でも持たせて寄こしたのだろう。
神の配慮により、ホテルの従業員はぼくが大日本雄弁社の原稿を書いていることを知っている。
すなわち、牢屋番の配慮により、ホテルが取り次ぐ訪間者は、同社の編集者とぼくの家族だけだ。
いちおう家族と呼ぶが、そのうちわけは青山のマンションに同居する義母兼家政婦の富江と、柏木のボロアパートに飼っている恋人兼サンドバッグの「パープーお清」こと田村清子である。
富江は毎朝十時きっかりにパンツの替えを持ってやってくる。
ついでにそっと睡眠薬と精神安定剤の数を調べて帰る。
清子は夜の十時きっかりにやってきて二、三発はり倒され、ついでに凌辱されて帰る。
エレベーター前の大時計は午後九時三十分をさしていた。
じきに清子がやってくるだろうから、雄弁社とは面倒な話はせず、弁当だけひったくって追い返すとしよう。
ロビーでは獄中の小説家が何人か、思いつめた顔でコーヒーを飲んでいた。
革張りの古い応接セットに、齢のころなら二十八、九歳とおぼしき女性編集者が、痩せた背を伸ばして座っていた。
どうしてそれが編集者だとわかるかというと、つやのないパサパサの髪をうなじでひっつめており、化粧ッ気のない硬質の顔に、牛乳ビンの底を並べたよろなメガネをかけているからである。
女はぼくに気付くと、ちょっとおろおろした感じで立ち上がり、最敬礼をした。ホテルの従業員たちは神のごとくフロントの中で微笑み、あるいは牢屋番のごとく玄関の両脇に立りていた。
「お忙しいところ、申しわけありません」と、女はもういちど深々と頭を下げた。
はて、新人ではなさそうだし、弁当も見当たらない。
どうしたことであろう。
遠目にはひどい醜女に見えたが、存外美人である。
いったい何の因果でパーマ屋にもブティックにもメガネ屋にも行かないのだろうとぼくは思った。
「して、ご用件は?」
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