ハードボイルド/ハードラック
 
  「ハードボイルドに生きてね.、どんなことがあろうと、いばっていて。」最後になった電話でそう言っていた千鶴。彼女のことを繰り返し思い起こす奇妙な夜を描く「ハードボイルド」。死を待つ姉の存在が、ひとりひとりの心情を色鮮やかに変えていく季節を行く「ハードラック」。闇の中を過す人々の心が光り輝き如める時を描く、二つの癒しの物語。
 
著者
吉本ばなな
出版社
幻冬舎文庫/幻冬舎
定価
本体価格 457円+税
第一刷発行
2001/8/25
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ISBN4−344−40159−X

1

私はあてもなくひとり旅をしていて、ある午後、その山道を歩いていた。
国道から一本山側の、緑にこんもりと覆われたいい感じの道だった。

私は光と影が作る美しい模様を見ながらその道を歩き始めた。
その時はとてものんきな、散歩を始めるような気持ちだった。

地図を見ると、その道はやがて国道に合流することになっているハイキングコースとしてしるされていた。
春のように暖かい午後の光の中、私は気分よく歩き続けた。しかし思ったよりも道は険しく、坂道がたくさんあった。

そうして一生懸命歩いているうちにだんだん日が暮れてきて、鮮やかな藍色の空にはいつの間にか宝石のようにくっきりとした光をたたえた宵の明星が輝いていた。
まだ薄いピンク色を残している西の空には晩秋の細い雲が柔らかい色に染まって次第に闇にのまれていくところだった。

月も出ていた。
爪のような細い細い月だった。

「このまま行くと、いったいいつ頃、町に着くことができるんだろう。」と私はひとりごとを言った。
あまりにも長く黙って歩いていたので、自分の声を忘れそうだった。

ひざがだるく、つま先が痛くなり始めていた。
「ホテルにしておいてよかった、晩ごはんの時間には問に合いそうもないや。」

電話を入れておこうと思ったが、山奥過ぎて携帯電話が通じなかった。
にわかにおなかもすいてきた。

もう少ししたら、私が予約しているホテルがある小さな町に着くはずだった。
そうしたら、その町でなにか温かいものを食べよう、私はそう思って少し歩調を速めた。

街灯の明かりが届かない、少し奥まった力ーブにさしかかる時、突然、すごくいやな感じがした。
ぐにゃりと空間が歪んで、歩いても歩いても前に進まないような錯覚にとらわれた。

私には、全く超能力というものはなかったけれど、ある時期から目に見えないものを少し感じるようになった。
私は女性でありながら、一度だけ、女性とおつきあいしたことがあった。その人には人に見えないものが見えた。

一緒に住んでいたらいつの間にかつられたのか鍛えられたのか、私もなにかの気配くらいはわかるようになってきたのだ。
彼女とは、数年前に、ドライブに行った先のこんな山道で、永遠に別れた。

その日は私が車を運転していた。彼女はもう同じ家に帰ることができなくなるのなら、しばらく旅をしてから帰るから、ここで私を降ろして、と懇願した。
真剣だった。

 

 

 

 

・・・・続きは書店で・・・・