公園
大きな公園のそばの小さなマンションに引越して二年になる。
春には近所じゆうに溢れるように桜が咲き、秋には黄紅葉がいい音で風に揺れる、きれいだけれどちょっと不便-駅が遠く、食料や日用品を買うお店も遠い-な住宅地だ。
駅が遠いというのは、つとめ人である夫にとっては随分不便なことだろうと思うのだけれど、しずかだし、散歩には好都合だし、近くにおいしいレストランがいくつもあるし、私は気に入っている。
ここでの生活は、だいたいにおいて少しかなしく、だいたいにおいて穏やかに不幸だ。
よくバスに乗る。
駅から遠いぶん、バスがあちこちに走っているのだ。
バスの路線はいりくんでいるうえ、一つの停留所に様々な行き先のバスがとまってわかりにくい。
私は元来地理に弱いので、知らないバスに乗ると不安でどきどきするが、簡易遠足のようでたのしくないこともない。
私の日常はおもに、仕事と、お風呂と、夫とでできている。
そのあいまに歯医者通いや公共料金の支払い、読書や掃除や洗濯や、おやつやお酒や人との約束がある。
ときどき公園にいく。
公園は、季節や曜日や時間帯によって、全然ちがう顔をしている。
いちばん気持ちがいいのは朝の公園だ。空気が澄んで、まだ誰も吸っていない酸素にみちている。
物の輪郭がくっきりし、世界じゅうがつめたくしめっている。
もっとも、寝坊の私が朝の公園をとおるのはパンを買いにいくときくらいだ。
バスで二十分のところにおいしいパンを売る店があって、週に一度くらいそこにいく。
朝七時からやっていて、焼いたばかりのパンを買えるのだ。
びしつとしたスーツに身をつつんた夫-このひとはめつたにパンを食べない、朝はせいぜいコーヒーか果物だを送りだしてから、顔を洗って口紅だけつけてでかける。
パン屋には小さなカウンターがあってコーヒーものめる。店は半地下になっていて、ガラスごし に、いきかう人々の脚がみえる。大通りに面しているので、車やバスのタイヤもみえる。
私はここで、たいていエスプレッソをのんでパンを一つ食べる。
雨の日は、なんとなく少し長居になってしまう。
通勤や通学の人たちにまざって乗る往きのバスはどこか心細い─なにしろ起きぬけでぼんやりしているし、洗いっぱなしの顔は、きれいにお化粧をした人たちばかりのなかで、さむざむしく頼りない-のだが、パンの入った袋を持って、帰りは元気になっている。
バスをおり、再び公園を横ぎってうちに帰る。
夜の公園は一人になりたいときにいく。
いろんな人がいるので、金曜日か土曜日がおもしろい。
きまってトランペットやクラリネットを練習している人がいて、その暴力的で感傷的な音色はいやおうなく耳にしみる。
私は歩道橋の上に立ち、かなしい心でしばらくそれを聴く。
どうしてかなしい心かといえば、夫とけんかをしたあとだったりするからだ。
そういうとき、夜の公園は水のなかみたい。
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