はじめに
ぼくは昔からずっと、クモが好きで好きでたまらなかった。小さいころは、集めたこともある。
庭のすみっこのきたない物置をえんえんとかき回して、クモの巣がないか、八本足のプレデターがかくれていないかとよく探した。
そして、見つけるとこっそり持ちかえり、自分の部屋で放してやる。
あげくにママに見つかって、こってりしぼられたっけ!
たいていのクモは一日か二日で、いつの間にやら見えなくなってそれきりだけれど、中には、長くいてくれるクモもいた。
ベッドの上に巣を張って、ぼくを一か月近く見はりつづけたクモもいる。
そのクモを見ながら、ぼくは寝るときよく想像した。ひょっとしてこのクモ、ここまで這ってきて、ぼくの口の中に入りこみ、のどをすべっておなかにどっさり卵を産みつけるんじゃないか。そのうち赤んぼうのクモが生まれて、おなかをかじり、ぼくを生きたままむしゃむしゃ養べだしたら、どうしょう-。
小さいころのぼくは、こわいことを考えるのが妙に得意だったんだ。
九歳のころ、パパとママが小さなタランチュラを買ってくれた。毒はないし、おせじにも大きいクモとは言えないけれど、あれは最高のプレゼントだった。
朝から晩までいつもいっしょに遊んだし、ハエやゴキブリや小さな虫などごちそうをいろいろ取りそろえて、思いきり甘やかした。
なのにある日、ぼくはとんでもないことをしでかした。
きっかけは、登場人物のひとりが掃除機に吸いこまれるテレビのアニメだ。
そいつは吸いこまれてもへいちやらで、紙パックをひきちぎって飛び出してきた。
ほこりで真っ黒になりながら、かんかんにおこった姿が、おもしろくてたまらない。
あんまりおかしかったので、ぼくもやってみることにした一そう、あのタランチュラで。
もちろん、アニメのようにいくわけがない。
あげくに、ぼくのいとしいタランチュラはばらばらに引きさかれてしまづた。
うわあ、どうしょうと大泣きしたけれど、こればかりはどうしようもない。いとしいペットは死んでしまった。
ぼくのせいだ。いまさらじたばたしても、もうおそい。
あとでパパとママにばれて、屋根が落ちてくるかと思うほど、すさまじい声でどなられた。
それもそのはず、あのタランチュラは、目玉が飛び出るほど高い買いものだったんだ。
悪ふざけにもほどがあるときつくしかられて、ぼくはあの日を最後にペットはおろか、庭によくいるクモさえ飼わせてもらえなくなった。
ところで、こんな昔のクモの話を、なんでいまさら持ち出したかって?
理由はふたつ、ある。ひとつは、この本を読むうちにわかってもらえるだろう。
で、もうひとつは一これから話すことはひとつ残らず、本当に起きたことだと信じてほしいからだ。
もちろん、すんなり信じてもらえるとは思わない-ぼくだって自分の話でなかったら、相手にしなかっただろう。
でも、うそは言っていない。
この本に出てくることはなにもかも、そのとおりぼくの身に起きたことばかりなんだ。現実の世界では、軽はずみなことをすれば、ふつう痛い目にあう。
でも本の世界なら、主人公はどれだけ失敗してもかまわない。
なにをしても、最後にはすべてめでたし、めでたしだ。
悪いやつをやっつけて、なにもかもうまくけりをつけて、ハッピーエンドで楽しく終わる。
ところが現実の話となると、掃除機はクモを殺す。
往来が激しい通りをろくに見ないでわたればはねられるし、木から落ちれば骨を折る。
現実の世界はきたないし、とても厳しい。
主人公がどうなろうがおかまいなしで、ハッピーエンドなどそっちのけだ。
人は死ぬし、けんかには負けるし、悪が善に勝つ。
このことを、話に入る前に確かめておきたかったんだ。
あとひとつだけ、聞いてほしい。
ダレン・シャンというのは、ぼくの本当の名前ではない。
これから話すことは、なにもかもぜんぶぼくの身に起こったことだけれど、名前だけは変えさせてもらった。
なぜかって……これも最後まで読めば、わかってもらえると思う。
ぼくの名前はもちろん、妹や友だちや先生も本当の名前ではない。
ひとり残らず、偽の名前にしてある。
ぼくの住んでいる国や町の名前も、書いていない。
というより、書きたくても書けないんだ。
まえおきはこのくらいにして、そろそろ話に入ろうか。
これがただの作り話ならば、風がふき荒れ、ふくろうがホーホーと鳴く夜に、ベッドの下でなにやらガサゴソ音がする場面から始まるところだけれど、本当の話だから実際に始まったところがら話すしかない。
あの日、ぼくはトイレにいた。
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