はじめに
「あっ、おかあちゃん、桜─」
思わず、感嘆の声がもれていました。
それにつられて、隣を歩いていた母も、
「わあ、満開やなあ。あないにきれいに咲いて……ほんま、見事やな」
今年四月のある日曜の午後でした。
久しぶりに母と買い物に出た私は、近所の淀川の土手まで足を延ばしたところで、見事に咲き誇る桜の木々と遭遇しました。
「もったいないぐらいの満開やなあ」
「ほんま、もったいないわ」
「何を考えて、咲いてんのやろ……」
「そうやなあ、何、考えてんのやろな」
「なんか、お腹がすいてきたわ」
「花より団子やな。いかにも、おかあちゃんらしいわ」
それは なんと、実りのない会話をしている母子だと思われるでしょう。
でも、これが我が家の実態なんです。
母と私の会話というのは、いつも母が機関銃のように話しかけてきて、私が相槌を打つという、その繰り返しです。
でも、こんな、他愛のない会話がうれしくもあるのです。
十五で家を飛び出した私が、再び母と同居するようになったのは三十二歳の時です。
その間には、身も心も離れ離れの十七年間がありました。
ようやく、このごろなんです。
こうして母子で気をつかうことなく話せるようになったのは。
桜についても同様に、私には切ない思い出しかありませんでした。
もちろん、すさんだ生活をしていた十代のころは、桜の花を眺める心のゆとりなんてありません。
受験勉強中はなおのことでした。
司法試験に合格した後、私は、司法修習生に採用され、最初の研修期間中は埼玉県和光市にある司法研修所の寮に入りました。
やはり春でした。
当時、父がガンで闘病中で、毎週金曜の授業が終わってからすぐに新幹線で大阪へ戻るという日々が続きました。
日曜の晩再び研修所に戻っても、みんなは遊びに出ていたりしていないので、ひとりで息ぬきがてら、寮の自転車を借りて、近くの公園を走ったりしました。
そこには、たくさんの桜が咲いていました。
ボーツと街灯に照らされて、たったひとりで夜桜見物。
最初は美しさに見とれているのですが、そのうち、父や母のことを思い出して、どことなく物悲しくなって……。
だから、桜を心から「きれいやなあ」と思えるようになったのも、本当にここ一、二年のことです。
それにしても、淀川の桜、まことに見事でした。
でも、あの桜は、ここ何十年も毎年、あの土手で同じように咲いていたのでしょう。
私に気づく余裕がなかっただけ。
そう思うと、青空の下の満開のピンク色が余計目に染みるのです。
十五で家を飛び出したと書きましたが、私は中学一年生の時、転校先の学校でいじめを受け、中二で自殺を図りました。
幸い一命を取り留め、元の学校に復学しましたが、私を待っていたのは、クラスのみんなの冷たい視線と、「死にぞこない」との誹誇中傷でした。
当時はいつも孤独で、その孤独を紛らわせるために非行に走り、その時さえ楽しければいいという刹那的な生活を送っていました。
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